時評

私の時評 (茨城新聞)
                            草 薙   裕

文化や言語に配慮を (2001年4月8日)
 論文集の英文目次にのせる筆者名の姓と名の順序が大学の教授会で話題になった。

 これには、昨年十二月に国語審議会が「国際社会に対応する日本語の在り方」と題する答申が引き金になっている。

 この答申は、「・・・、人類の持つ言語や文化の多様性を人類全体が意識し、生かしていくべきであるという立場から・・・一般的には各々の人名固有の形式が生きる形で紹介・記述されることが望ましい・・・。」したがって、日本人の姓名はローマ字においても姓―名の順が「望ましい」としている。

 人類の言語や文化の特異性は、その人類の日常生活の中でのことであり、日本語の名前の表記における「姓―名」の順序は日本の文化、日本語の中で生きていることであり、これが英文(あるいは、他の言語や文化)の中で、そのままの順序で使うのが望ましいかどうかは、その文化や言語の慣習をよく考えたうえでないと簡単には決められないはずだ。

 英文の中にも、たとえば、名前を並べる場合など、「姓ー名」の順の書き方もある。しかし、これを日常の英文の中にいれて、Smith, Johnとした場合、Mr.やMs.のタイトルの入れ場がない。また、先の答申にしたがって、英語の教科書の中には"My name is Yamada Taro."というような表現を採用しているものもあるそうだが、これを聞いたアメリカ人やイギリス人はどれが姓で、どれが名、だけでなく、姓と名の境界もよく分からないという。

 答申の中に「中国人や韓国人の名前は英文の新聞や雑誌の中でも自国の呼び名と同じ『姓ー名』の順に書かれている・・・」という記述があるが、アメリカで生活している中国人や韓国人たちは、アメリカの慣習にしたがい、「名ー姓」を使っている。

 名前に関して、もう一つ日ごろ気になっていることがある。 新聞やテレビ、ラジオの放送において、同じ漢字圏といわれる中国、台湾と韓国の人名の扱い方に違いがあることにお気づきの方も多いだろう。韓国の大統領は放送では「キムデジュン」と呼ばれ、新聞では「金大中(キム・デジュン)」のように読み方が丸カッコで示されていることが多い。それに対して、中国人の方は、たとえば、江択民国家主席は「コウタクミン」と日本語読みをされており、新聞にもカッコ付きはない。これは、韓国人は自分の名前の読みを自分のことばでの発音にこだわるのに対して、中国人はあまりこだわらないからだろう。

 これを逆にすると、韓国人は韓国語の中の日本人の名前はちゃんと日本語読みにするのに対して、中国人は中国語の中では中国読みにしてしまう。

 さて、どちらの方がいいのか。国際社会を考えるなら、答えは明らかだ。江択民を「コウタクミン」と発音するのは日本だけで世界では通用しない。欧米の新聞や放送に出てくるJiang Zeminが江択民とは結びつかないし、この読み方を知らない限り、外国人との会話にも話題にできない。

 このように名前の問題一つにしても、国際社会の場面では、非常に複雑な要素を含んでいる。自分の立場だけを通すのではなく、相手の言語や文化を十分考え、どうすればコミュニケーションが円滑に行えるかを考える態度を持つことが重要である。

 本稿と次項に関する追記が下記にあります。ご覧ください。
 

望む漢字でIT交換 (2001年6月17日)
 「あなたの名前の二番目の漢字はコンピュータにありません。これに替わる漢字は何ですか。」中国の北京のホテルでチェックインの手続きをしているときの話である。要するに私の姓の「草薙」の「薙」が現代の中国語の漢字から「抹消」されているので、それに替わる漢字を使えということなのだ。日本でなら、「かなでいいよ」ですむが、中国ではそうはいかない。「薙」の字は「剃」の字の異体字とされているので、後者を使わざるを得ないが、「草剃裕」なんて、とても自分の名前とは思えない。「知らないよ」というと、後で調べて教えろという。いらぬお世話だ。

 われわれは漢字文化圏などといい、日本、中国、台湾、韓国をはじめ、かなり多くの国や地域で同じ漢字を使っていると思っている。しかし、国際化で多くの人々が行き来をし、さらに、インターネットの時代になり、外国の人々とメールの交換をしたり、ホームページを読んだりしている。

 いわゆる漢字文化圏の国や地域に行くと、漢字の形や使い方に違いがあり、とまどうことが多い。韓国の町並みではほとんど漢字にお目にかからない。道路標識も店の看板もハングルだ。中国では漢字が使われているが、かなり大胆に漢字を簡単にした「簡体字」と呼ばれるシステムを使っているので、とまどったり、読めなかったりすることが多い。台湾では、日本の旧漢字にあたる「繁体字」を使っているので、われわれ年寄りは問題ないが、若い日本人はどうだろう。

 日本の常用漢字、繁体字、簡体字は、共通の漢字の形もあるが、例えば、この順で、「発」「發」「发」となる。最後の「发」は「発」だけではなく「髪」の意味にも使われている。「発達」が「发达」に「頭髪」が「头发」になる。 日本の常用漢字、繁体字、簡体字は、共通の漢字の形もあるが、前述の「薙」が「剃」に「吸収」されたのもこれと同じだ。ただし、日本人が中国の漢字の形や使用にとやかくいう筋合いはない。

 外国に行かなくとも、コンピュータを使った交流ではとまどうことも多い。最近、台湾の教え子からメールが届いた。ところが、いわゆる「文字化け」(送り手と受け手が異なる文字のシステムを使ったため、文字が混乱して読めないこと)で読めない。ところどころにひらがなが入っている(この部分は意味がとれる)ので、相手が何らかの日本のシステムを使っていると思い、いろいろ試してみたがだめである。結局、繁体字の通信に使うシステムであることが分かり、多少、読めない漢字もあったが理解できた。ところが、同じ教え子から来た、次のメールは別のシステムで送られてきたので、解読するのにまた、手間がかかった。

 コンピュータで文字が扱えるのは、すべての文字に固有のコード(番号)が付けられており、それぞれのコードの文字がどういう形をしているかという情報(フォント)が用意されているからだ。このコードがそれぞれのシステムで異なるし、コードが与えられていない文字は原則として使えない。さらに、国がかわれば文字の形も大幅にかわることがある。アルファベットの世界ではそれほど問題はないが、漢字となると、送り手のシステムと受け手のシステムが異なれば文字化けになる。 日本語のシステムの間では自動選択で、コンピュータが切り替えるので気にすることはいらなが、外国間の通信では、いちいち設定しなければならないし、自分のコンピュータに相手のシステムがなければどうにもならない。

 世界中でこのシステムを統一しようという努力がなされているが、いろいろ問題もあるようだ。一日も早く世界中で漢字を使う人々が苦労しないでインターネットでやりとりができるようになることを望みたい。

 ところで、冒頭のホテルを四か月後にチェックアウトするときの計算書には私の名前が「草某裕」となっていた。 

 前項と本稿に関する追記が下記にあります。ご覧ください。


分かるカタカナ略語を (2001年8月19日)
 最近、新聞や雑誌を読んでいて気になることがある。カタカナ語の略語で、もとの意味が簡単に頭に浮かばないのがときどき出てくる。その典型が小泉首相が始めた例の「メルマガ」だ。このことばを知っている人はともかく、これから「メールマガジン」を思い起こす人がどれほどいるだろう。その証拠に小泉首相のメルマガが話題になった直後にある新聞の四コマ漫画に「メルが曲がっているの?」というのがあった。

 ことばを略すことは今に始まったことではない。漢字語でも「国連」「日銀」「東大」などきりがない。略語は社会で認知されれば問題はない。しかし、それまでの過程で、すぐ元のことばが浮かんでこないと困る。ここに出した略語も「国連」は国際連合と国際連盟の双方にとれる。なぜ、「東大」は東京大学であり、東北大学、東海大学、東洋大学など数ある大学を指さないのか、ごねたくもなる。

 略すことで、連想されることばの範囲が増えるので、慎重にすべきである。とくに、カタカナ語はそれが甚だしい。

 これも、新聞の投書欄に載っていたものだが、中学生の娘の予定表に「合コン」と書いてあって親がびっくりした。娘に聞いたら「合唱コンクール」だったという。「合コン」といえば「合同コンパ」が頭に浮かぶ。親が驚くのも無理はない。

 ところで、「コン」が後ろに付く略語は実に多い。たとえば、

パソコン(ピュータ)

生コン(クリート)

リモコン(トロール)

追いコン(パ)

バリコン(デンサー)

ロリコン(プレックス)

ツアコン(ダクター)

ボディコン(シャス)

など、あげればきりがない。これらのほとんどは普通に使われているから、あまり問題なく理解されるだろう。ところが、「クラコン」、「クリコン」、「まじコン」となると、若者以外はまず、理解不可能だろう。「コン」はすべて「コンパ」。「クラ」は「クラス」、「クリ」は「クリスマス」、「まじ」は「まじめ」である。これらは、いわゆる「若者ことば」である。

 若者ことばは社会方言の一種であり、いろいろの社会階級における内輪の独特の表現で、自分たちが他とは違うところを示したり、外の人達には分からない表現を使うことをいう。芸能界や水商売で、朝から晩まで、「おはようございます」で通したり、警察や闇の世界の隠語、寿司屋や魚屋の符丁などが知られている。

 若者ことばも昔は、エリートであった大学生や旧制高校生などが使った「ゲルピン」(お金がないこと)や「バックシャン」(後ろ姿は美人だが!)などが有名である。

 最近は大学生の数も増え、エリート意識もなくなり、単に若者たちのことばが、テレビやラジオにのって、広まっている。ここでも略語が非常に多い。筆者が勤めていた大学には、クラス制度がありクラスに「1,2,3...」と番号が付けられていたが、これを「1クラ」、「2クラ」という。前述の「クラコン」の「クラ」である。なぜ一拍をケチるのか。社会方言では内輪の表現だから、外部の人間には分からなくともいい。いや、分からせないのが目的だ。

 とこらが、これが、一般向けの新聞や雑誌に現れると問題になる。社会方言の「部外者に分からないように」と普通のコミニュケーションにおける「分かりやすさ」が混同されては困るのである。新聞、テレビ、ラジオで広がれば,すぐ慣れるさ、というのは安易というか不親切である。とくにカタカナ語の省略はこの点を注意して欲しい。

 行き過ぎるとジャイアント・パンダが「ジャパン」になってしまう。 


ガキ大将の育つ環境を (2001年11月11日)
 昨年の白川英樹氏に続いて、野依良治氏がノーベル化学賞に輝いた。大変お目出度いことである。受賞決定後、母上のコメントに「やんちゃで手に負えない子どもだった」とあった。やはりすごいことをやる人は子どものころも違うなあと思った。

 ところで、この頃、やんちゃ、ガキ大将、お転婆などの子どもがずいぶん減ったように思う。この夏、「週末は地域で遊ぼう・大人が『ガキ大将』役に」という見出しの記事が本紙に載っていた(八月二十六日)。週末や放課後に子どもたちが安全に楽しく遊ぶ場を確保しようと、大学生や高齢者らさまざまな立場の大人が「ガキ大将」役として子どもたちと一緒に遊び、子どもの活動を手助けできる地域づくりに乗り出すことを文部科学省が決めた、というのだ。

 ちょっと違うのではないかな。もちろん、大人が子どもに伝統的な遊びや農菜園づくりなどの体験の指導をするのは結構だ。しかし、今、求められているのは、大人の「ガキ大将」ではなく、子どもの中にガキ大将を育てることではないだろうか。

 このプロジェクトで、文部科学省が大人を「ガキ大将」役にすると考えたのか、新聞がレトリックとして、そう名付けたのかは定かではない。ガキ大将とは、「遊び仲間のうちで、腕力が強く、一番いばっている者」(三省堂『新明解国語辞典、第五版』)とある。ガキ大将はリーダーとしての素質を持って、仲間をまとめるのである。大人がこの役をやったのでは、子どもの自主性が育たない。

 かつてのガキ大将は、一見、腕力だけで、子分たちを集めていたと誤解されるが、仲間をまとめる才覚がなければ、単なる無法者で、だれもついていかない。遊び仲間をまとめるとともに、他のグループとの対決で、仲間を守る、というようなことに力を発揮していたし、喧嘩のルールもわきまえていたのだ。

 この頃、受験戦争や過保護でガキ大将が育つ環境が失われているのではないだろうか。例えば、体育祭での騎馬戦をとってみても、昔は、馬の上の将を落として、はじめて勝負をつけていた。それが、鉢巻きをとれば決着、さらに、鉢巻きが帽子になった。それもすべての駒が負けるまで待たないで、短時間で終わりにし、残った駒の数で勝負を決めるようになった。怪我をさせないようにとの配慮だろうが、それなら逃げまわれば生き延びるという利己主義を助長する。こういう世界ではガキ大将は育たない。

 グループにガキ大将がいてこそ、自分たちの遊びに工夫が生まれ、遊びに熱中できた。今、学園祭や文化祭がたけなわだが、私の小学校時代のガキ大将が思い浮かぶ。当時は学芸会といわれていたが、我々のガキ大将の独壇場だった。今でいうプロジューサー、ディレクターの役をいっきに引き受け、学業で成績のいい連中をうまく使いこなしていた。このガキ大将は社会に出て立派に成功して、今だに、同級会でもリーダーシップを発揮し、仲間の信頼を独占している。

 受験戦争における勉強第一主義、大人の過保護などによる子どもの偏った行動。これは大人が「ガキ大将」役になっても解決しない。子どもを自由に遊ばせ、子どもの世界の秩序を作るように導いてこそ、子どもたちが伸び伸びと育ち、そこに子どもたちの個性が発揮され、自分勝手な考えをもつのではなく、ルールに則った仲間グループの社会の役割を考える力がつき、立派な大人に成長していくだろう。

 今からでも遅くない。我々大人たちは子どもを画一的な人間に育てるのではなく、彼らの社会でいろいろな仲間たちと、それぞれに切磋琢磨して、個性溢れる子どもに育てるような環境作りをすべきだと思う。


へたな敬語より心を (2002年1月27日)
 東京のあるレストランでのこと。親子三人が入ってきた。案内するウエイトレスが「三人様、入ります」とさけぶ。すかさず、幼稚園か小学校低学年と思われる男の子が「入ります」と続けた。そのタイミングのいいこと。しかも、はからずも、「三人様、入ります」という表現のアンバランスを指摘した形になり、痛快であった。

 この「~人様、入ります」という表現は、不思議なことにあちこちの飲食店で聞かれる。「~人様」と持ち上げておきながら、敬意のない「入ります」を続ける。筆者の自宅の近くのラーメン屋では、ウエイトレスが厨房へ「注文、入ります」といっている。「お客様」を注文と同じに扱っていることに気づいていないようだ。

 もう一つ、例を挙げよう。事務員が患者を「~様」と呼ぶ病院が増えているようだ。国立大学の附属病院ですら、これに追随いているところがある。「患者様は神様」ということか。しかし、医者は患者を「様」付けにはしない。「~さん」と呼んでいる。人前で顧客の名前に「様」を付けるのは、随分前から銀行で行われている。これは、一つには銀行の品位が高いことを誇示すること、もう一つ、お金を持ってきてくれる顧客に対しての媚びを売ること、が理由なのだろう。だから、けしからんというつもりはない。しかし、同じところで、事務員は「~様」を使い、医者は「~さん」と呼ぶのは、未だ患者に対して医者が上という日本での固定観念を表しているようで、気にかかる。

 時代は変わりつつある。若者たちが敬語に抵抗を感じ、敬語の体系が変わっていくことに対して、何ら批判をするつもりはない。自然に変化する言語表現に対して、言語学者はそれを記述したり、その経過を説明するのが役目であり、いいとか悪いとかはいわないと前にも述べた。

 ところが、前記の「~人様」や「~様」はちょっと違う。飲食店や病院が、一種のマニュアルの形で、こう行こうと決めているのではないか。もちろん、多くの飲食店が相談したのではないだろう。どこかで始めたのが、だんだん広がったに違いない。しかし、そういった表現が自然にできあがったとは思いにくい。

 こういう表現はいろいろある。これもレストランで、「メニューの方はもうよろしいでしょうか」と聞かれたことがある。なぜ、わざわざ、「方」を入れるのだろう。「メニューは~」で十分である。これも病院で聞かれる表現だが、血液を採ろうとする看護婦が患者に「腕をまくってもらっていいですか」いうのがある。なぜ、「腕をまくってください」ではいけないのだろう。

 先日、高速バスで、停留所で待っていた客に対して、運転手がドアーも開けないで、「満席になっております。次のバスをご利用願います」といっていた。立派な敬語であるが、どうも心がない。ドアーを開けて、「すみません。満席です。すぐ来ますから次のバスまで待ってください」といえば、敬語の程度ははるかに落ちるが、心がこもっているのではないだろうか。

 敬語は敬意を高めると、親しさが薄れる。ことばだけ敬意を高め、心がないと、慇懃(いんぎん)無礼になる。また、ある部分に敬意を高める表現を使うと、他の部分の表現とのバランスが崩れる。

 客商売では、「お客様は神様」ということで、やたらと敬意の高い敬語の表現を使いたいのも分かるが、それより心、サービスで勝負して欲しい。そこから自然な表現が生まれるのではないだろうか。



追記 (2002年2月2日)
 昨年の本欄で「韓国の町並みではほとんど漢字にお目にかからない」と書いた。その後、昨年の八月にソウルを訪ね、「オヤ」と思った。漢字が増えているような気がしたからだ。今年の一月にも再度ソウルに行き、町を回った。もちろん、ハングルやアルファベットが圧倒的に多いが、ビルや店などの名前が漢字でかかれているのが散見された。ほとんど漢字表記がない道路案内板に「国立民族博物館」と漢字で出ていて驚いた。韓国人の間で漢字の使用が増えたのかと、大学の先生に聞いてみたら、日本人や中国人の観光客向けだという答えが返ってきた。なるほど、日本人観光客が多い梨泰院のある洋服屋のウインドーに「太い腹専門店」などという日本人向けのユーモラスなものもあった。

 韓国では、やはり、漢字よりハングルの方が断然優勢のようだ。  自分の名は漢字がない、という女子大生にあった。そんなことがあるのかと、詳しく聞いてみたら、何のことはない。日本人だって、名(とくに女の子の名)も平仮名や片仮名で書くものがたくさんある。自分の娘も「りか子」と「えり子」である。  日本も韓国も名を漢字にするか仮名(ハングル)にするかは同じことだ。仮名の名前の日本人は韓国に行けばハングルで表記するより方法がない。さらに、漢字であったとしても、それを日常、ハングルで書く韓国人にとっては、自分の名前がどう発音されるかが問題であって、自分の名前の漢字を日本語読みにされたら、自分の名前ではなくなるわけだ。

 やはり、四月八日の「私の時評」で、「韓国人は自分の名前の読みを自分のことばでの発音にこだわるのに対して、中国人はあまりこだわらない」。さらに「韓国人は韓国語の中の日本人の名前はちゃんと日本語読みにするのに対して、中国人は中国語の中では中国読みにしてしまう」と書いたが、その理由が分かった気がする。すなわち、中国人は漢字が頭にあり、発音は別にある。同じ漢字でも中国語と日本語の読みが違うことを了解しているわけだ。それに対して、韓国語の場合、漢字が仲介しないため、あくまでも発音にこだわるわけだ。

 漢字圏などといっても自分の論理で片づかないところに難しさがある。異文化理解はやはり、外国に行って考えるにこしたことはない。


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