ことばの森の探索

ことばの森の探索--言語学はおもしろい--

                            草 薙  裕

はじめに

   筆者が言語の研究を始めてから、もう47年経つ。その間、言語の研究だけではなく、言語の教え方、それも人間が外国語が使えるようになるにはどう教えたらいいかだけでなく、どうすればコンピュータが人間の言語が使えるようになるかといった研究を行ってきた。

 我々人間は、生まれながらにして少なくとも一つの言語が操れるようになる。もちろん日本人の中には必ずしも敬語がうまく操れない人もいるが、少なくとも日常の意思の疎通には問題がない。ところが言語の仕組みやその使い方の説明を求められたら答えることが出来る人は多くない。

 そこで、いろいろの側面から言語について考えてみることにした。そして専門的な観点からではなく、ごく普通の人に言語のおもしろさや不思議さを理解していただけるようなエッセイの形にしようと思っている。

 半月ごとに新しい話を追加していくつもりでいるので、どうぞご期待を。

 ひとつお願いだが、本稿の内容を記事にすることはご自由だが、その時は必ず引用(直接あるいは間接のいずれか)の形にした上で次のように出典を明記していただきたい。

     草薙 裕 2013 「ことばの森の探索」. http://ykusanagi.com/language.html/

 また、本稿を読んでいただいた方のご意見やご質問を歓迎する。下記にメールをお寄せいただきたい。それに対するコメントや回答は本欄に載せるか個別にメールを送るかにするので必ず本名とメールアドレスを書いていただきたい。本名が本欄に載るのが差し障る方は、本名を書いた上で匿名を希望する旨を加えていただきたい。

                                     草薙裕 (2013.1.20)

                  【ご意見・ご質問などはこちらへ】


目次

 1. 世界に言語はいくつあるの?
 2. あなただけの言語があるのか?
 3. 日本がアメリカの言語学を普及させた!?
 4. 人を椅子にしたのはウーマンリブ!?
 5. 二言語使用が夫と妻を入れ替えた!?
 6. 言語は建物と同じなのだ!
 7. 人間の脳はコンピュータより数桁優れている!
 8. 文の理解の手掛かりはその意味だけではない!!
 9. 現れたり消えたりするトイレ??
10. 文そのものだけではコミュニケーションは難しい!!
11. 外国語の挨拶は難しい!!
12. One Please??
13. 熱い水??
14. 英米人は牛や豚を食べない!?
15. 「漢字圏」ということばに惑わされるな!!
16. あなたの名前の漢字がありません??
17. 「アメリカ人の妻」の国籍は??
18. 役に立つ本を「勧める」か「薦める」か??
19. 敬語は語用論なしでは語れない!!
20. 敬語はシーソーに乗って!!
21. 敬語は適語適所??
22. コンピュータはことばが話せるようになるだろうか??
23. きしゃのきしゃがきしゃできしゃした??
24. 新年を迎えて
25. 超お勧め外国語習得法!!
26. 英語で考える??
27. あなたは耳人間?目人間?それとも!!
28. バタ臭い日本語!!
29. 点か空間か??
30. 1日は24時間ではない??
31. 言語変われば発想変わる!!
32. 1と2は違うが2と3は同じ??
33. 文は2種類の構造を持っている!!
34. 変形が意味を変える!!
35. 外国語文のredundancyを利用して文章を読もう??
36. 外国語の適切なことばが見当たらない!!
37. ことばも環境の影響を受ける!!
38. 言語の変化は観察できる!!
39. 言語はゆっくり変化する!!
40. 韓国語の敬語は日本語の敬語と大きな違いがある!!
41. 挨拶と人間の行動の関係はおもしろい!!
42. 英語に敬語はあるの??
43. 外国人は宇宙人か??
44. きれいになったトイレ!!
45. 使っていけない「ことば」?!
46. 惑星」と「遊星」はどこが違うのか??
47. 「えっ!アイス・ティがないの??」
48. なぜ有効なビザが無効なの??
49. 大学教授は忘れっぽい!?
50. ことばと人生!!


1. 世界に言語はいくつあるの?

 初対面で筆者の専門が言語学と知った人が発する質問の一つに「世界にはいくつぐらい言語があるのか」がある。

 この質問をした人は、複数の言語に接触したり、一つの国で日常、複数の言語を使う国のことを知って言語に好奇心を起こしたのだろう。

 だが、残念なことに、筆者の答えはいつも「わかりません」だ。言語を専門にする人間がわからないとは「なんてバカな」と思う人もいるだろう。

 その理由を明かすために世界の中の「言語」の使い方の一端を考えてみよう。

 たとえば、スペイン人とイタリア人が話をするとき、お互いに相手の「言語」を使う必要はない。スペイン人はスペイン語を、イタリア人はイタリア語を使えばお互いに相手のいうことが理解できるのだ。このことから、世界には習わずしてコミュニケーションに差し障りのない「外国語」があることがわかるだろう。なぜだろう。これは、スペイン語もイタリア語もラテン語が先祖であり、二つの言語はフランス語やポルトガル語を含めて、ラテン語を親とするいわば兄弟の言語だからなのである。

 それでは同じ祖先から生まれた言語はお互いに通じ合うかというとそうでもない。おもしろい現象として、たとえば、スペイン語とポルトガル語の間では、普通、ポルトガル語の話者はスペイン語を理解するが、スペイン語の話者はポルトガル語が理解できないという、何とも不思議な現象があるのである。

 これには例外もある。筆者がアメリカの大学の大学院に留学していたとき、下宿のルームメートがブラジル人であったが、彼のところにコロンビア人の友人がよく遊びに来ていた。その二人の間では、ブラジル人は母語のポルトガル語で、コロンビア人は母語のスペイン語で、ちゃんと会話が成立していた。

 そのことをそのブラジル人に話すと彼は「普通のスペイン語話者は私の言うことを理解しないが、あのコロンビア人は例外で、私の言うことを問題なく理解するのだ」と言っていた。

 この現象は単に言語の問題だけでなく、文化が絡んでいるように思われる。自分たちの方が主に歴史的に文化が優位にあると思っている方は相手の言語を理解しようとしないのに対して、文化が低いとされている方は、なんとか相手の言語を理解しようとしているのではないだろうか。そこで、前記のコロンビア人は個人的に仲のいい友人のポルトガル語に差別感はなく理解できるのかもしれない。実はこれに似た現象が日本語の中にもあるが、改めて論じることにする。

 ところで、異言語間で意思の疎通が可能な例があるのに対して「同じ言語」の中で意思の疎通ができないものがある。

 有名なのが中国語だ。中国で話されている、北京語、上海語、広東語、客家語、福建語などは中国語の方言だとされているが、話し言葉としては意思の疎通ができないのだ。中国語は文法や漢字(正確には中国に対して台湾や香港などで使われている漢字はかなり形が違うが、このことは別の項で論じることにする)はほぼ共通だが、発音が著しく異なるのでお互いに言っていることが理解できないのだ。したがって北京官話という共通語を設け、異方言間ではこれを使っている。

 さて、冒頭の世界の言語数が分からない理由に戻ろう。上記の言語の間での理解度と言語と方言の区別の話からお分かりのように、独立した言語か同一の言語の中の方言かの区別はかなり恣意的、いいかえればいいかげんなのだ。したがって言語の数を数える基準になる言語の定義がないのがその理由なのである。

 言語と方言は歴史的、政治的、文化的などの影響で、恣意的に境界線が引かれた結果でその区別ができてしまっているわけだ。 

 ちなみに、言語と方言の違いについてMatthews(2007)は

   The criterion for distinguihing 'dialects' from 'languages' is taken, in principle, to be that of mutual intelligibility.

すなわち、相互に意思の疎通が可能かどうかにあると述べているが、この定義に従うとイタリア語とスペイン語は一つの言語の方言となり北京語や広東語などはそれぞれ独立した言語であり、中国語は共通語としての北京官話を除けばそもそも中国語という言語など存在しないことになる。ただし、上記の文献は言語学者によって書かれたものだが専門家用のものではないことを断っておく。

参考文献

  Matthews, P.H. 2007 Oxford Concise Dictionary of Linguistics. Oxford, UK: Oxford University Press. 

(2013.1.20)      《目次に戻る》 《ホームページに戻る》



2.あなただけの言語があるのか?

 前回に続いて言語と方言の区別について述べよう。

 データが古いが増田(1978)におもしろい記述がある。それにいよると、1961年のインドの国勢調査で被調査者の母語が何かを聞いたところ、出てきた母語の数が全体で1,652に達したという。当時の人口が約6億人(現在は12億人を超えている)にしても一つの国の中にこれだけの数の母語があるというのは驚きである。

 ところが、さらに驚くデータがある。同書は、

  ...この種の言語人口調査の記録を整理すると次のような表が出来る。

  使用人口一人....................... 73言語

  使用人口二人~十人.................137言語

  使用人口十一人~百人...............173言語

  .....

と述べてる。

 こうなると、言語と方言の区別の問題以前に、言語とは何か考えなければならなくなるのではないか。73言語の使用者は、それぞれの言語をどうやって、言い換えれば誰に対して使っているのだろう。前回に述べたように異言語間でも意思の疎通が可能なケースがあることを考えると、周りの人たちと異なる言語を使っていながら意思の疎通をはかっていることになる。それにしてもなぜ一人だけの言語なのだろう。

 これに対する回答が2001年の国勢調査のことを論じたMallikarjum(2001)にあった。それによると、インドの国勢調査では調査員が被調査者に「あなたのお母さんが、小さいときにあなたに話していた言語(これがこの調査における母語の定義なのだが)はなんですか」と聞いている。ところが、インドの言語にはそれぞれたくさん方言があり、母親の話したことばの名前がよく分からないのがごく当たり前だという。さらにインドのように多くの言語や方言がある状況では上記の、子供の頃母親が話していた言語という定義が当てはまらないケースがたくさんあり、その結果、他に同じ言語を話す人がいるのに、自分だけの、言語の名前が出てきたのであろう。

 余談だが、Mallikarjum(2001)は1961年の国勢調査に言及し、その国勢調査がもたらした言語統計が記念すべき研究の成果だと指摘している。それは例の1652の母語と400前後のその他の言語を主要な四つの言語族(インド-ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロ-アジア語族、チベット-ビルマ語族)に分類したことだという。国勢調査のお陰で言語学の専門家のプロ集団を築き上げたと述べているのは興味深い。

 絶対多数の人間が日本語を母語としている日本では考えられない言語事情が世界にはある。いや、日本のようにどこに行っても一つの言語を使う国が世界では珍しいのである。 いずれ項を改めていろいろな国における言語の使われ方も論じることにしよう。

 なお、Mallikarjum(2001)はインターネットで検索すると全文が読めるので、興味ある方は試していただきたい。

参考文献

 増田 純男(編)、1978、『言語戦争』、大修館書店.
 Mallikarjum,B 2001, Language according to Census of India 2001, in M.S.Thirumatai, Language in India --Strength for Today and Bright Hope for Tomorrow, Vol 1:2.

(2013.2.5)      《目次に戻る》 《ホームページに戻る》



3.日本がアメリカの言語学を普及させた!?

 筆者がアメリカの大学の大学院で言語学の博士課程にいた頃、日本から来た大学教授から、日本の大学では、言語学では「飯が食えない」といわれたことがあった。当時日本の大学には言語学科は数えるほどしかなかった(今もそう変わっていない)。それに対して、アメリカでは大きい大学には言語学科がまずあると言っていい。

 なぜだろう。そこには歴とした理由があるのだ。皮肉なことに国内ではあまり言語学が普及していない日本が逆にアメリカに普及させた、と言えば「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論法になるが、事実なのである。

 第二次世界大戦で日本とアメリカは戦争を始めた。日本では英語は敵国の言語だとして学校では英語の授業がなくなったところが多く英語教師も肩身の狭い思いをした。それに対してアメリカは戦争をする相手の言語の使い手は特に軍で重要な役割を果たすということで、日本語が達者なものを集めようとした。しかし集まったのは日系人ばかりであった。日本人の子孫である日系人は日本との戦争には使えないということで、改めて適性検査をして将校や兵士を集めてゼロから日本語の訓練を始めることにした。ところがまだ問題があった。日本語の教科書がない。日本語の教師もいない。教え方(教授法)も分からない。教師は前線にいくのではないから日系人が採用された。そして教授法と教科書は言語学者に開発させようということで国内の言語学者に招集がかかった。この言語学者の中には日本語を学ぶため大学に入ることにしていた人もいたというエピソードもある。

 集められた言語学者は、アメリカ人に日本語を教えるには、日本語と英語の仕組みを細かく調べ(この手法を対照分析と呼ぶ)、異なる点を徹底的に訓練する方法が効果的であると考えて、それを軍の語学校で実践した。学習者である将校や兵士の学習動機付けは非常に高かった。語学校で落ちこぼれると即、明日の命が分からない戦場へ送られる。それを避けるために死にものぐるいに日本語を学習した。この教授法、教科書、優秀な学習者の動機付け、この三点セットが大成功に導いた。

 戦後、日本の言語、文学、歴史、文化などの専門家になって活躍した多くのアメリカ人の多くがこの語学校で日本語を学んだ卒業生だったのだ。

 この成功の結果、アメリカでは言語学は外国語教育に実際に役立つ学問であるということになり、各大学が言語学者の養成学科を設置したのである。その後、外国語の教授法がいろいろ編み出されたり、言語理論が発展したりしている。

 前記の対照分析(日本では対照言語学ともいう)の古典ともいえる著書を参考文献に挙げておく。

 最後に、戦争に関するる一つの対策がたまたま学問の発展に役立ったということであって、戦争を決して肯定しているのではないことをはっきり断っておきたい。

参考文献

 Lado, Robert 1975 Linguistics across cultures. Applied Linguistics for Language Teachers. University of Michigan Press.

(2013.2.20)      《目次に戻る》 《ホームページに戻る》



4.人を椅子にしたのはウーマンリブ!?

 筆者がアメリカに住んでいたのは1960年代の中ごろから10年余りであったが、その頃ウーマンリブ(女性解放運動)が盛んだった。

 それで、筆者は英語に比べて日本語の方がはるかに「男女同権の言語だ」とアメリカ人に言ったものだ。その裏付けは、英語ではMr.とMiss、Mrs.というように男性と女性を区別し、しかも女性は、さらに既婚と未婚を区別する(今は既婚、未婚の区別をなくしMs.を使う)のに対して日本語は男性も女性も区別なく「様」あるいは「さん」を付ければいいという説明で、アメリカ人はいたく感心したものだ。

 ところで見出しの話だが、会議の司会者や部や課の長をchairmanといっていたが、これをウーマンリブが抗議した。女性なのにmanを使うのはおかしいということで、結局女性の場合はchairwomanを使うことになった。その後、chairmanとchairwomanの両方を使うのも男女を区別していることに気付き、性の区別のないchairpersonを使うようになった。

 ところが、議事などで手を挙げて「議長!」と注意を引く場合、英語では、”Mr. Chairman”というが、これが”Mr.Chairperson”では長すぎて言いづらい。そこで、さらにこれを縮めてchairを用い”Mr.Chair”とか”Ms.Chair”と言うようになった。結局、人間であるchairmanから椅子であるchairに成り下がったことになる。

 ただし、このchairは元々、椅子という意味に加えて大学教授や裁判官のための特別に権威あるポストを指すこともあり、さらにそのポストに着いている人も指すことがあったから人間が急に椅子になったとはいえないかもしれない。

 なお、増田(1978)によると、この時期にアメリカの労働省は3万5千あった職業名の一割を改定したという。

 興味ある方は辞書を調べてみてほしい。同じ辞書でも版によって入っていたりいなかったりしていることがある。そこで語がいつの版から辞書に入ったか、すなわち、いつから市民権を得たかが分かるのだ。

 たとえばWebsterの1983年版1)には上記のchairの説明の項に「比喩的に議長の意味に使う」とあるが、1986年版2)には”chairman”がchairの説明の項にそのまま入っている。すなわち、議長や部長などの意味のchairが市民権を得たのはこの時期であることが分かる。本当は同じ辞書の異なる版で調べるべきだが手に入らなかったので同じWebsterの辞書を取り上げた。

 この1986年版には辞書に初めて載った年代が入っており、それによると、

  chairman 1654

  chairwoman 1685

  chairperson 1971

となっている。これを見ると、ウーマンリブは最初に既存のchairwomanを使い、次にchaipersonを新しく作り、最後に比喩からchairを使い始めたと考えられるだろう。

 ところで欧州語の多くはすべての名詞が男性名詞か女性名詞に、また言語によっては中性名詞に別れている(これをgenderという)。これを男性と女性の区別をなくそうとしても文法上まず不可能である。また、いわゆる差別語の追放の問題もあるが、いずれ項を改めて論議することにする。

 注1) Webster’s New Twentieth Century Dictionary.

 注2) Webster’s Ninth New Collegiate Dictionary.  

(2013.3.5)      《目次に戻る》 《ホームページに戻る》



5.二言語使用が夫と妻を入れ替えた!?

 筆者がアメリカ首都のワシントン特別区にあるジョージタウン大学で教えていたある日、学長から一通の封書が届いた。教員のための学長主催のパーティの招待状だったが、驚いたことに、宛名が、

   Mr. & Mrs. Mutsuko Kusanagi

となっていた。この書式は社交的な書簡やスピーチなどで夫婦を名指すときに使う。そして、Mr. & Mrs. (今はMr. & Ms. だろうが)の後にくるのは夫のフルネームである。上のMutsukoは筆者のファーストネームではなく、家内のものである。はじめは訳が分からず学長の秘書がミスをしたのだと思った。

 ところが、ようく考えるとその理由が分かった。まず、秘書が宛名をタイプするときYutakaとMutsukoが同じ学科の教員であり、住所が同じであることから夫婦であると想像した(ここまでは正解である)。次にYutakaとMutsukoのどちらが夫かと考えた。これは筆者も何度も欧米人の名前からMr.なのかMrs. なのかが分からないことがあったのですぐ理解できた。

 そして、ここからが二言語使用の問題になるのだが、アメリカの首都であるワシントン特別区にはキューバや他の中南米の国からの移民が多いところでり、スペイン語が飛び交いっている土地柄なのだ。また、土地の人の多くもスペイン語が使える。

 スペイン語は、第四話で触れたように名詞が男性と女性に分かれていて、男性名詞の多くは語尾が-o、女性名詞は-aになっている。

un niño bonito

una niña bonita

はどちらも「かわいいこども」であるが、上は「男の子」であり、下は「女の子」である。頭の"un"、"una"は単数の冠詞、次の'"niño"、"niña"は「子供」を表す名詞、最後は「かわいい」という意味の形容詞である。名詞が男性名詞と女性名詞に分かれていて、冠詞も形容詞も名詞の性によって形を変えるのである。

 さて、本題に戻ろう。もうお分かりだろう。このスペイン語の現象から類推して-aで終わるYutakaは女の名前、-oで終わるMutsukoは男の名前と判断したのだろう。そして筆者夫婦は入れ替えられたのだ。

 ところで、上記の様式では妻の名前が隠れてしまう。ウーマンリブの影響(第四話参照)でどうなっているか、著者は知らないが、アメリカの社交上の決まりでは妻を指すまたは名乗る場合は自分の名前は使わず夫のフルネームを使い、例えば筆者の妻ならMrs. Yutaka Kusanagiというように名乗るのだ。筆者の知人で夫が亡くなった未亡人が著者夫婦に呉れた書簡にはいつもMrs.の後に夫のフルネームが書かれていた。社交の決まり事だが、ウーマンリブは問題にしないのだろうか。

 ところで、アメリカの二言語使用ないし多言語使用については別の項に譲ろう。

(2013.3.20)      《目次に戻る》 《ホームページに戻る》



6.言語は建物と同じなのだ!

 書店に行くと、いろいろな言語の学習書が並んでいる。その中には『~語4週間』とか『~語10日間』といった旅行者向けの外国語学習書がある。これらの本を見てみると、「おはよう」をどういうかはともかくとして「郵便局はどこですか」とか「そのセーターはいくらですか」というような表現が列挙されており、それに対する外国語、たとえば英語では、"Good morning"、"Where is a post-office?"、"How much is that sweater?"などが並べられており、それを丸暗記すれば外国での日常生活に使えるというものだ。

 それに対して、「そのセーターはいくらですか」なら、「セーター」のところに、「シャツ」、「帽子」、「ネクタイ」などを入れ替えれば、それに対する英語のことばを覚えれば、

   How much is a (sweater, shirt, hat, tie)?

のように応用が利く。

 前者は一つの言語の文と他の言語の文を一対一に対応させている。それに対して、後者は一つ文が部分に分割され、その部分にたくさんの仲間が入ることを示している。このことは言語の研究をする上で非常に重要なことなのである。

 よく「言語には構造がある」といわれるが、この後者の考え方がまさしく「構造」なのである。

 構造という言葉は恐らく建築の用語からきたものであろう。では、建築上の構造を分かりやすく考えてみよう。たとえば部屋の構造を考えると、部屋は天井、床、壁、柱などから成り立っており、さらにそれらには戸、窓などの部品が付いている。すなわち、部屋という全体に対してそれがいろいろな部分に分かれており、それがまた部分に分かれており、さらに天井と柱、床と柱の関係はそれぞれ異なっている。

 このように全体が部分から成り立ち、その部分間に独特の関係があることが構造なのである。このように言語は部屋の構造と似ているのである。

 たとえば

  庭にきれいな花が咲いている


という文(全体)は【図1】のように、

木構造
        【図1】

「庭に」、「きれいな」、「花が」、「咲いている」という文節(部分)に分かれている。さらに「庭に」は隣の「きれいな」とも「花が」とも直接にはつながっておらず、「咲いている」につながっている(修飾している)。また、「きれいな」は「花に」につながっており、そこでつながった「きれいな花が」が「咲いている」につながっているのである。まさしくこの関係が「全体」が「部分」から成り、その部分の間で、独特の関係を持っているということである。

 言語学の主な課題の大きな一つはいろいろな言語の構造を明らかにすることである。

 ところで、言語学は建築学上の「家」とか「部屋」などから類推すると分かりやすいが、建築士になるには国家試験などに合格しなければならないのに対して言語学者は国家試験とは無縁である。

(2013.4.5) 《目次に戻る》 《ホームページに戻る》


7.人間の脳はコンピュータより数桁優れている!

 最近、将棋のプロ棋士5人と五つのコンピュータソフトが団体戦形式で対戦し、コンピュータの3勝1敗1引き分けになり、プロ棋士の敗戦が決まった。コンピュータが人間を超えたと考える方も少なくないかもしれない。

 ところが、言語に関する限り、コンピュータは人間の脳にははるかに及ばないと筆者は思っている。

 筆者の専門は言語学の中でもコンピュータ言語学という分野である。この領域の目的はコンピュータが日本語や英語などの日常言語(専門的には自然言語という)をあたかも知っているように「振る舞う」ことができるようにするための言語の研究である。このために人間がどのような仕組みを使って言葉を交わしているかを考えていると、その仕組みは第6話で説明した言語の構造はもちろん、ことばが使われる場の状況や常識などいろいろなメカニズムが絡んでおり、それをコンピュータに規則として仕組んでいくには膨大なデータを整理しなければならないことが分かる。

 その複雑なメカニズムの最たるものが言語の「曖昧」さだ。われわれが日常に使う「曖昧」の意味は、何かがはっきりしないことを言う。先日の朝日新聞(2013/04/06夕刊)に、日米両政府が合意した嘉手納以南の米軍基地返還計画に関して仲井真弘多沖縄県知事が返還時期が「わからない」と述べ、「書きぶりがあいまいだと指摘」したという記事が載っていた。これは返還の時期がいずれも「2014年度またはその後」というようになっていることを指したものだ。

 この意味に対して、言語学における「曖昧」という意味は一つの表現に複数の意味があることをいう。したがって上記の「2014年度またはその後」という表現は「曖昧」(以降、特別に断らない限り、言語学の用語として用いる)ではないわけだ。言語学でいう曖昧性は人間の言語の大きな特徴なのである。

 一つ例を挙げよう。筆者がアメリカの大学の大学院に在学中のある日、日本人からの客員教授ご夫婦と筆者夫婦が車で観光に出かけた。その途中、車の中でスカートの長さが時代で変化するという話になり(以下、話題の主が誰なのかを分かりやすくするため丁重語を用いたり括弧を入れたりしている)、家内が奥様に「奥様のお嬢様のときは如何でしたか」という質問をした。この文は曖昧である。一つの意味は「あなたの娘さん」の時代であり、もう一つは「あなたが娘であった」時代である。時代でいえば2,30年の開きがあることになる。

 そこで、話題が一段落したところで、家内が使った文には二つの意味があることを説明した上で、家内に「奥様のお嬢様のとき」はどっちの意味で使ったのかと聞いた。家内の返答は後者の意味だった。そこで奥様にそう解釈されたかと聞いたところ、返答は「その通りです」であった。

 この会話ではこの表現の曖昧さが見事に解消されていたわけである。ではその要因は何だろう。話題になった奥様、その娘、さらにこの質問をした家内の年齢が鍵になっている。奥様が子供であった時代のことは家内は子供で知らない。それに対して、「奥様の娘」の時代は家内は大人になっていてよく知っているはずだ。このようなことを話し手たちは直感的に考慮しているのである。

 このようにいろいろなメカニズムのため、文が曖昧になるのに、人間はほとんど誤解することなく相手のいうことをその意図通りに受け取っているのが人間の言語使用である。ところが、コンピュータにとって曖昧は大敵である。一つの表現が曖昧であればコンピュータはどちらの意味かが分からない限り正確な処理は不可能なのである。したがって、前述のような会話者や話題の人たちの年齢から曖昧さを解消するような「常識」までも規則にしてコンピュータに「教え」なければならない。それを考えると人間の脳がコンピュータの処理に比べていかにすばらしいかを実感させられるのである。

 冒頭の将棋にしても、人間が考えた将棋のノウ・ハウをコンピュータに「教え」たのも人間であることを忘れてはいけない。

(2013.4.20)      《目次に戻る》 《ホームページに戻る》


8.文の理解の手掛かりはその意味だけではない!!

 突然だが、次の文が正しいかどうか考えていただきたい。

   酸素があれば硫黄は燃える
ほとんどの人がこの文は正しいと判断するだろう。ところがこの文が正しければ、空気中にある硫黄は燃えていなければならない。しかしそのような物騒なことは起こらない。なぜか?硫黄の発火点が232oCであるからだ。蛇足ながら発火点とは物質が火の気なしに燃える最低温度のことである。

 前記の文が正しくないのは硫黄の燃える条件が酸素の存在だけではないからだ。これを必要条件という。また、その条件さえ満たしていれば、ある物事が成立するとき、その条件を十分条件という。前記の文で「酸素がある」ことが必要条件であるのに、なぜそれが十分条件のように解釈されるのだろうか。それは会話のやりとりの中でわざわざ「酸素があれば」と酸素のことを述べていることから他の条件はすべて満たされているという前提で文を理解するからだ。

 もう一つ例を出そう。

 ナポレオンはなぜ青いズボンつりをしていたのか

ときかれたら、この文のトリックを知っている人以外はさてどうしてだろうと考えてもそんな話、聞いたことがないと降参するだろう。すると、ズボンつりがないとズボンがずりおちるから、とやられる。待てよ。そもそもズボン吊りの目的はズボンがずり落ちないようにするためのものなのに。何かだまされたような気がする。

 上記の文はズボン吊りの目的が前提の上で、そのズボン吊りが「青」だといっているわけだから、そのズボン吊りがなぜ青かったのかと問うていると解釈するのが当たり前である。それを逆手にとっているクイズをズッコケというらしい。

 ところで、上記の文は松田(1985)からの引用だが、著者が学会の先輩から聞いたのは「赤いズボン吊り」だった。念のため。

 さて、文を理解するとき文の基本的な意味だけが手掛かりではなく前提のような要素を加味しているのである。

 ついでながら、このような現象も前項と同じようにコンピュータに言語を「教える」ことを難しくしている要因なのである。


参考文献

 松田道弘(1985)『ジョークでパズる』、講談社。

(2013.5.5)

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9.現れたり消えたりするトイレ??

 まず例から始めよう。

   1)話せば分かる。

   2)ケーキを食べたければ、食べていいよ。

この二つの文は、いわゆる条件文といわれるもので、前件が条件で、後件は前件が成り立つときに成立するものである。すなわち、(1)の文で「話さなければ」分からないが、「話せば」分かるということである。(2)の文は「ケーキが食べたい」ということが成立していれば、食べていいと許可をしているわけで、「食べたくなければ」、許可の必要がない。

 では、次の文はどうだろう。

   3)トイレに行きたければ、廊下の突き当たりにあります。

この文は、たとえば、入学試験の会場で試験が始まるまでにまだ時間があるとき、試験管が、受験生に言うような表現であり、ごく普通の文で、おかしいところがあるとは思わないだろう。ところが、この文も前述の条件文と同じ形をしている。では、前件の「トイレに行きたい」のが成立していればトイレが「廊下の突き当たりに存在し」、「行きたくない」のなら、「廊下の突き当たりから消えてしまう」ことになる。では、この文が表現としておかしくなくて、受け入れられるのはなぜだろう。

この文の前件と後件が直接関係がない。では、前件と後件はどう関係付けられているのだろうか。次のように、

     トイレに行きたければ -- 行ってもいいです -- 
           ところで、トイレは廊下の突き当たりにあります

と、条件に対応する許可の表現が中に入り、条件文が成立し、「ところで」のように、条件文と直接、関係のない、「トイレは廊下の突き当たりにあります」という表現が続いているのである。

 話し手と聞き手はこのことを意識することなく、あたかも(3)の文が条件文と理解しているのである。

 この現象も言語の使い手が暗黙の了解事項を補っているわけである。これを応用すると、(2)の文も、

   3)ケーキを食べたければ、(冷蔵庫にあるから)食べてもいいよ。

となるわけである。

 ただ、断っておきたいのは、どんな条件文もこういう表現が可能とは限らない。

   4)野球の試合を見に行きたければ、明日天気がいいようだよ。    5)?野球の試合を見に行きたければ、明日雨だよ。

で分かるように、(4)の文は、前半と後半をつなぐのが、「天気が気になるだろう」というような表現が考えられ、受け入られるだろう。それに対して、(5)の表現は間につなぐようなものが考えられないので、文としては成立しないわけだ。なお、(5)の表現に「?」が付いているのは、何らかの意味で文として成り立つかどうか疑問だということを示している。 

(2013.5.20)

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10.文そのものだけではコミュニケーションは難しい!!

 道を歩いているとき、見知らぬ人から、

     ちょっとすみません。Mデパートへ行きたいんですけど。

と話しかけられたらどうするだろう。日本人なら、

     この道をまっすぐ行って、2番目の信号を右に曲がれば、左側にあります。

というように、Mデパートへの道を教えるだろう。聞かれた文には道を教えてほしいとは言っておらず、ただ、デパートへ行きたいという意思を表しているだけなのにである。それなら、

     邪魔しませんから、どうぞご自由に。

といった方が文に忠実なはずである。言語を実際のコミュニケーションの場で使う場合、文の基本的な意味だけを情報として用いるのではなく、その文が発せられる状況(話し手や聞き手がだれで、その間柄、まわりがどんな場面になっているかなど)からの情報が、文がどういう意図で用いられているかを左右しているのである。

 このように文がどのように用いられるかを研究する分野を語用論という。もちろん母語話者は言語の使用を意識することなくコミュニケーションを行っている。しかし、外国語を用いる際はこの言語の使用をよく理解しないとうまくコミュニケーションを行うことが出来ない。このことに関しては稿を改めて論じることにする。

 さて、冒頭の文に戻ろう。職場で部下が同じ文を発したとしよう。当然、部下はデパートの場所を知っているだろうから、道を聞いているわけではない。当然、上司と部下の関係から、部下が「デパートに行くことを許可してほしい」ということを伝えているわけだ。そこで、

     君、まだ3時だよ。

と言えば、文面には表れないが、その許可を拒否していることになる。

 また、友人とゆっくり話をしようとして、この文を発したら、

     ちょっとデパートに行きたいんだけど。

と言われれば、これは誘いを断っているのである。

 最後に同じ文がマラソンで道を渡れない人から交通整理の警官に発せられたとしたら、これはその状況の解決を欲していることになり、警官は、

     ちょっと待ってください。ランナーが途切れたときに渡って貰いますから。

というようなことになるだろう。

 ついでながら、コンピュータに言語を「教える」上でこの語用論の問題は解決が非常に難しいことはいうまでもない。

(2013.6.5)

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11.外国語の挨拶は難しい!!

 筆者が台湾の大学で教えていたときのことである。ある朝、キャンパス内の宿舎から研究室へ向かう途中、突然、

   「先生...おはよう」

と女の学生に声をかけられた。筆者は立ち止まり、次の言葉を待ったが、その学生はさっさと離れて行ってしまった。筆者は呼び止められたと思ったのだが、そうではなかった。教師に向かって「おはよう」というのは問題だが、それはともかく「先生...」というのは、日本語では挨拶ではなく、ひと(先生)の注意を引くための信号である(幼稚園児や小学校の低学年児は挨拶の前に「先生」を入れることがあるが)。ところが、中国語では、挨拶の一つで、単に「老師」(先生)だけを使うこともある。このことは相原(2007)にも、

 ...廊下を歩いていると中国人留学生が「相原先生!」と声をかけてきます。これが彼らの挨拶なのです。...

と述べている。

 挨拶は決まり文句があり、それを使っていれば問題ないと思われがちだが、コミュニケーションの場でいろいろ異なった表現を使い、それが言語によって千差万別なのである。

 前項で述べたように、ことばの使い方(語用論)は、相手の意図を理解するために重要な要素であるが、特に異言語間のコミュニケーションという観点からは、非常に重要かつ難解な問題なのである。

 日本語と英語の挨拶は一見、「おはようございます」、「こんにちは」、「こんばんは」に対して、"Good morning","Good afternoon","Good evening"がそれぞれ対応しているように思えるが、英語では"Good morning"は誰にでも使える挨拶であるのに対して、日本語の「おはようございます」はいわば身内の間の挨拶なのである。ここでいう身内は家族や会社、仲間のグループだけではなく、同じことをしている人たち、すなわち、仲間意識を持った人たちもこの中に入るのである。このことは水谷(1979)に皇居の周りでジョッギングをする人たちと単に歩いている人たちにジョッギング姿の著者が「おはようございます」と声をかけた結果、この二つのグループの間で異なる反応があったという報告がある。もちろんジョッギングのグループの人たちがほとんど返事を返したのに対して、単なる歩行者はあまり返事を返してこなかったのだ。

 さらに、ほとんどの韓国語入門書には、韓国語の挨拶は「안녕하세요(アンニョンアセヨ)」が朝から晩まで使えると書いてあるが、このことがそのままずばり本のタイトルになっている(参考文献参照のこと)ちょん・ひょんしる(2011)によると、それは親しい人の間ではほとんど使わないで、

   잘 잤니? (チャル チャンニ よく寝た?)
   밥 먹었니? (パム モゴンニ ご飯食べた?)
   푹 쉬었니? (プグ シィオンニ ゆっくり休んだ?)

など、相手のことを具体的に訪ねる表現を用いるといっている。

 挨拶は毎日繰り返している表現で、決まり文句は堅ぐるしく聞こえ、親しい人たちの間ではいろいろの表現を用いることが多い。中国語や韓国語では挨拶の表現自体を柔軟に変えるのに対して、日本語では「おはようございます」のような決まり文句の後に「いい天気ですね」とか「よく降りますね」など、天気の表現が挨拶の一部として続くのである。言語によって異なるのでよく注意しなければならない。


参考文献

 相原 茂 2007 『感謝と謝罪--はじめて聞く日中”異文化”の話』、講談社。
 ちょん・ひょんしる 2011 『韓国人はアンニョンハセヨとは言わない!?』、アスク。
 水谷 修 1979 『日本語の生態 : 内の文化を支える話しことば』、 創拓社。

(2013.6.20)

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12.One Please??

 母語と外国語との相違に関連して、最近(2013/6/1)、朝日新聞の天声人語にも引用された、ロシア語の同時通訳者だった故米原万里氏の著書(1994)に、面白いが信じられない話が載っている。少し長いが、読んでいただこう。

   あるとき、とある商社の社長さんが、商談のためアメリカを訪れ、大変歓迎された。この社長さんは日本語しかできない。英語はできないけれども、
  英語ペラペラの海外市場部長というのが同行していて、

   「社長、一切日本語でかまいません。私が全部訳させていただきますから、挨拶(あいさつ)なさる際には全部日本語でおっしゃってください」

  と言うので、社長はその言葉に従い、日本語で挨拶をした。しかしスピーチの最後の部分は、せっかく相手の国は来たのだからせめて一言ぐらい英語を
  しゃべってサービスしなくては、と思ったのか、

   「ワン・プリーズ(One please)」

  と締めくくった。宴会終了後、英語ペラペラ部長は社長の傍らへ走り寄り、

   「社長、最後のあれは何でしょうか」

  と尋ねると、社長は得意満面の様子で、

   「うん、君、あれも分からんのか。ひとつ、よろしく、だよ」
  と答えたという、これは実話である。

 この社長、英語が話せなくとも、学校で英語を習っているはずだ。それにも関わらずこういう発想をするとは、日本の英語教育では、同じ環境でも言語によって異なる表現を使うことをちゃんと教えていないからだろう。

 次の例を見ていただきたい。メモを取ろうとして、ペンがないことに気づいたとき、

   A 「ペン、ある?」
   B 「うん、あるよ。」
   C 「じゃあ、ちょっと貸して。」

というような会話をするだろう。筆者は11年、アメリカで暮らしていたが、この日本語の「貸して」を英語でどういうか思い当たらない。その鍵は次の会話にあるだろう。

   A: Do you have a pen?
   B: Here you are.

で、ペンが出てくるのだ。日本語ではまず持っているかを問い、次に「じゃあ」でワン・クッション置き、「貸して」と頼む。一方、英語では頼む前から相手がそれを察してペンを出してくれるから依頼の表現は必要ない。ただし、依頼の表現が全く必要ないわけではない。携帯電話が普及した昨今、他人の電話を借りる必要もあるまいが、かつては"May I use your telephone?"だった。

 さて、このように外国語でコミュにカーションを取ることは、グローバル化時代、非常に重要であるが、それを習得することはなかなか難しい。そこでお勧めしたいのは、音読(テキストを声を出して読むこと)である。状況が盛り込んであるテキストを何回も何回も音読するのが一番効果的だと筆者は考えている。こういうテキストを探すのはなかなか大変だが、一例としてW.L.クラーク著の『アメリカ口語教本』、研究社刊(入門用から上級用まである)あたりがいいと思う。

 筆者は大学生の時、毎朝一時間、テキストを音読した。読んでいるうちに状況が浮かぶようになる。同時に耳がテキストを覚える。外国語で会話をしているとき、同じ状況が現れると、耳から〔実際には脳から)口へ司令が行き、知らず知らずのうちに、その場での適切な表現が口から自然に出てくるものである。

 この方法は外国旅行のための会話書で短い文を暗記するよりはるかに効果がある。是非試していただきたい。

参考文献

米原万里 1994 『不実(ふじつ)な美女(びじよ)か貞淑(ていしゆく)な醜女(ブス)か』、徳間書店 〔新潮社から同名の文庫版(1998)が出版されている〕。

  引用文および参考文献の中の括弧は原文のルビを表している。

(2013.7.5)

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13.熱い水??

「熱い水」とはなんのことだろう。

 もう何十年も前のことだが、ハワイにある日本語の放送局のニュースで、

 「熱い水が工場から川に流れ出し、たくさんの魚が死にました。」

と放送していた。言いたいことは分からなくもないが、日本語には水は冷たいもの、それを熱くするともう水ではない。そう「湯」である。ところが英語では日本語の「水」に対応すると考えられている"water"は温度に関係ない。すなわち、"hot water"なるものが存在する。そこで、前述の「熱い水」はおそらく、英語のニュースの中のhot waterを翻訳した結果、出てきたのだろう。では日本語でなんといえばいいのだろう。湯か熱い液体としかいいようがないだろう。

 筆者はこの「熱い水」に再び遭遇した。招かれて韓国の大学に講演に行ったときのことだ。夜、何人かの教え子が、寝酒にと焼酎を携えてホテルに尋ねてきてくれた。歓談の後、彼らが帰る前にお湯割りのための「お湯」を持ってくるようフロントに電話をしてもらった。彼らが引き上げた直後フロントから確認の電話がかかってきたが、日本語で

   「お客さん、『熱い水』がほしいですか。」

だった。来たな,と思ったが、下手にそうじゃない、といったら、お湯割りが飲めなくなるだろう。そこで、そうだ、というと、無事お湯が届いた。韓国語は英語と同じなのだ。

 ところで、中国語はもっと複雑だ。日本語の水は「水」だが、湯は「开水」(開水)であり、逆に中国語の「汤」(湯)はスープのことである。中国では漢字が使えるから、話せなくとも筆談で通じると思っていると、お湯を頼んだつもりが、スープに化けかねない。なお、上記の漢字の中に見慣れないのが混じっているが、これは中国で使っている漢字(これを簡体字という)である。これについては稿を改めて論じることにする。

 このように、世の中の事物を表すのにその切り方が言語によって異なるのは当たり前で、例を挙げればきりがない。日本語を通して外国語を見るばかりでなく、外国語の観点に立ってみると色々発見があるので面白い。

(2013.7.20)

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14.英米人は牛や豚を食べない!?

 筆者が学生たちに、アメリカ人やイギリス人は牛や豚を食べない、と言うと、彼らは変な顔する。なかには、「先生、イスラム教徒は豚を、ヒンズー教徒は牛を食べませんがアメリカ人やイギリス人が牛や豚を食べないって聞いたことがありません」と言う学生がいる。そこで、じゃあアメリカ人やイギリス人は”ox”や””pig”をたべるかな、と言うと学生の半分はやられたという顔をするが、残り半分は何のことだろうといった顔をしている。

 このやり取りがお分かりだろうか。そう、英語を話す人たちは牛肉や豚肉は食べるが、牛や豚は食べない。すなわち、前者は”beef”や”pork”であり、後者は”ox”や”pig”であり、同じものではない。日本語ではもちろん牛肉とか豚肉というが、”牛の肉”や”豚の肉”なのである。英語のbeefやpork”は「~の肉」のようには、分解せず、一語である。(「語」の定義は一筋縄ではいかない。稿を改めて論じることにする。

 しかも、日本語の牛は英語ではox、bull、cowなどといい分ける。さらに、子牛はcalfであり、その肉はvealといい、さらに雌の子牛はhelferである。それに対して日本語は牛、雄の牛、雌の牛、牛肉(牛の肉)、子牛、子牛の肉などとすべて牛でまとめている。

 さらに、豚や羊も同様である。それに対して、例えば犬、猫、熊などはそれほど語が分化(事物を切って語にする)されていない。

 これは、語の分化はその言語を使ってきた人たちの文化(生活)と密接な関係があることを反映しているように思う。

 日本語の「米」は日本人の主食であり、我々の生活と密接に関わってる。そこで、米、稲、田圃、藁、餅、白米、玄米、稲穂など一語で表しているが、英語では”rice”に他の語を付けて複合語で表す。

 また、逆に英語では、wheat(小麦)、barley(大麦)、oat(カラス麦)、rye(ライ麦)、straw(麦わら)、flour(小麦粉)など分化されてそれぞれ一語で表すが、日本語では「麦」でまとめている。

 今でこそ日本人と英米人の食生活はそんなに違わないが、食生活の歴史が反映しているわけである。

 こういう観点から言語間の語彙の分布を眺めるのも面白いものである。

 ついでだが、イスラム教徒が豚を食べないことやラマダン(断食)をすることなど、世界には日本人と異なる食生活があることを理解しておくことも必要だろう。かなり前の話だが、学生の論文発表の合宿で食事に豚肉が出たが、参加した学生の中にエジプト人の学生がいて、世話人が大慌てしたことがあった。また東南アジアを旅行したとき乗る便、乗る便の機内食が必ず鶏肉だった。地域の宗教による複雑な食生活に対応したものだったわけだ。

 気軽に海外に旅行するようになった今日、ことばはもちろんいろいろな国や地域の事情を理解しておくことも重要である。

(2013.8.5)

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15.「漢字圏」ということばに惑わされるな!!

 「机场」は中国でよく見かける表現であるが何のことだろう。中国語を知っていたり、よく中国へ行く人はともかく、日本人は漢字ながらなかなか分かるまい。「机」は日本語にもあるから問題ないが、「场」は見たこともない漢字だ、と考えたら大間違い。中国語の「机」は日本語の「机(つくえ)」とは全く関係がない。実は「機」なのだ。この漢字の旁の「幾」が「几」と簡略化されたため、「機」が「机」になったのだ。「场」の方は「場」の簡略字であることは分かるだろう。そしてこれは「空港」のことなのだ。

 ところで、「漢字圏」ということばがある。もちろん、漢字発祥の地の中国をはじめ日本、韓国、香港(中国の一部だが漢字は中国と事情が違うので別扱いにする)などをはじめ、中国系の人が多い、ベトナムやシンガポールをはじめとする東南アジア諸国など漢字を使っている地域のことをいう。そして中国語は話せないが、漢字圏だから筆談で通じるだろう、と考える人が多いのではないか。

 これには二つの罠がある。一つは同じ漢字および漢字の組み合わせでも、日本語と中国語で意味が異なるものが多いことである。上記の「机场」も「機場」とかいても、これが「空港」だ理解するのはなかなか難しいことだ。この日中語の違いについては稿を改めて論じよう。

 次は漢字の形の問題である。現在、漢字を使っている国や地域では三つの異なる漢字の形がある。一つは日本が使っている、いわゆる新漢字である。戦時中まで使っていた旧漢字に対して付けられた名前だが、新漢字と呼ぶには定着してしまっている。これに対して中国で使われているのを、簡体字という。これも戦後、旧漢字を簡略化したものだが、日本語の新漢字よりかなり簡単になっている。日本と中国以外に上に挙げた国や地域では今だに旧漢字を使っている。中国で使っている簡体字に対して、その他の国で中国語に使われているのを「繁体字」と呼んでいる。 同じ中国語を使っている国でも、簡体字と繁体字の二種類があり、それに加えて日本の新漢字があるわけである。

 上で見たとおり、漢字圏では、中国語が話せなくても漢字は読めるし、漢字を書けば相手に通じるだろうというのは的外れで、漢字を読むのに苦労するし、日本人が書いた漢字を中国人が理解できるという保証もない。

 ただ、繁体字を使っている国はかなり日本人にも判読できるので、中国より楽だといえるが、「體」「臺」「鹽」はお分かりだろうか。最初のは日本の大学の校章や学友会旗に入っている。二番目は国の名前の一部、最後は毎日口にするもの。それぞれ体、台、塩の繁体字だ。なお、台湾では通常「台」の時の方を使うことが多いようだが、たとえば「臺灣銀行」のように使われている。

 また、韓国も「漢字圏」に入るが、韓国人が使っているのはほとんどがハングル(朝鮮半島で使われている仮名のような文字)を用い、漢字にはなかなかお目にかかれない。何年か前に韓国に行き高校生の前で講演をした。終わってから、みんなに名前と住所を書いてもらったが、全員が自分の名前をハングルで書き、一人も漢字を使わなかったのには驚いた。ソウルオリンピック前は道路標識や店の看板もほとんどハングルだった。その後、中国人観光客のために漢字が増えたというが高が知れているだろう。

 このようなわけで、中国へ行く人はご用心。

(2013.8.20) 

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16.あなたの名前の漢字がありません??

 もう十数年前のことだ。中国の北京のホテルでチェックインをしているとき、

 あなたの名前の二字目の漢字がコンピュータにありません。代替字はなんですか。

といわれて驚いた。実は代替字を知っていたが、知らない、ととぼけた。「では、調べて知らせてください」という。冗談じゃない。字がでなければ自分で調べろ、といいたかったが角が立つので「分かった」で済ませた。筆者の姓の草薙の「薙」がコンピュータでは出せない。すなわち、中国では認められた漢字ではない、というわけだ。日本語ならカナでいいよで済むわけだが、中国語ではそうはいかない。

 この「草薙」という名前はかなり珍しく、かつては中々聞き取ってもらえなかったり、どんな漢字を書くのかと聞かれたりしていた。何年か前から少し事情が変わった。スマップというグループが有名になり、その中に「クサナギ」君がいた。漢字は「草彅」で筆者のとは異なるが、音は同じである。家内はようやく「クサナギ」という姓が認知され、名前が聞き取られるようになった、と大喜びしていた。

 ところが、この「彅」という字は普通のコンピュータには入っていなかった。コンピュータによっては入っているものもあったが、他のコンピュータと通信すると、途端に文字化け(目的の漢字が現れず変な記号が現れること)が発生することが普通だった。

 最近はいろいろの文字が使えるUnicodeというシステムが普及し、「彅」もワープロやインターネットでも使えるようになった。本稿でこの字や中国語の漢字などが使えるのもUnicodeのお陰である。

 さて、中国語の漢字の話だが、漢字を大幅に簡単にした「簡体字」が採用されたことは前項で述べた。それと同時に漢字の数も大幅に制限された。その理由は漢字の普及である。大人口を抱えた中国では教育の普及にも問題があり、より多くの人民(国民)が漢字を使えるようにするために字形を簡単に、漢字の数を少なくしたのである。

 余談だが同じ中国語を使う台湾では漢字の変革は行われていない。にもかかわらず、台湾の人たちは実によく漢字(字形が一番複雑な「繁体字」)を使いこなしている。

 中国では漢字の数を減らす方策として、異体字(たとえば「沢」と「澤」のように意味が同じで字体が異なる漢字)をまとめた。これに引っかかったのが「薙」である。この字の(中国語の)異体字の「剃」に吸収されたのである。他に「働」が「動」に、「歴」と「暦」が「历」に吸収されたのはまあしようがないとしても、こともあろうに「發」と「髪」が同じ 「发」(発音は同じだが四声が異なるので辞書では違うところに出ている)になってしまったのには納得しがたい。

 断っておくが、他国の改革に外国人が批判するのは筋ではない。ただ、日本人は中国の漢字使用に関してそれなりの対応が必要であることを理解しておかなければならない。

 ところで、北京のホテルに四ヶ月近く滞在した後、筆者の名前の漢字はどうなっているかと思ったら、寄越した領収書には「草某裕」とあった。怪しげな人物にされたような気がした。

 なお、中国における漢字改革については張(1997)を参照されたい。

参考文献

張 静賢 1992 『現代漢字学講義』、現代出版社(1997 松岡 榮<監訳>『現代中国語漢字講義』、三省堂)。 

(2013.9.5) 

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17.「アメリカ人の妻」の国籍は??

 まず例文を見よう。

  1.大きい眼鏡の女性

という表現は曖昧である。この曖昧という用語は第7話で論じたように言語学では、一つの表現が複数の意味を持つことである。

 1の表現は「大きい眼鏡をかけた女性」と「眼鏡をかけた大きい女性」という二つの意味があるのだ。なぜそういうことになるのかというと「大きい」という形容詞が掛かる先が異なるからだ。文法の構造を図示すると、前者は、

  2.((大きい 眼鏡の)女性)

となり、後者は、

  3.(大きい (眼鏡の 女性))

となるのだ。

 では、次の表現はどうだろう。

  4.大きい 目の 女性

これは1の表現と同じ文法の構造をしているので、掛かり方を調べてみると、

  5.((大きい 目の)女性)

  6.(大きい (目の 女性))

となるはずだが、6の「目の女性」というのは意味をなさない。その理由は、3は「眼鏡の女性」が意味的に「眼鏡の」が「女性」の特徴となり「眼鏡をかけた女性」と「眼鏡をかけていない女性」を区別しているのに対して、「目の」という表現は人間すべてが目を持っていることから「女性」を特定できない。すなわち、この表現は文法的には6の構造が存在するのに意味的にはあり得ないわけである。

 また、

  7.アメリカ人の妻

という表現も曖昧であるが、4とは逆に文法的には曖昧ではないのに、意味のレベルで曖昧になっている。すなわち、「アメリカ人」という表現の意味が、一つは国籍がアメリカであるということと、もう一つはあのアメリカ人、というように特別な「人」を指すのに使う。

 したがって、前者の意味では、妻がアメリカ人ということになるが、後者は夫がアメリカ人で、その人の妻のことを指しているので、この妻の国籍は明示されていない。

 ところで、英語では「アメリカ人」や「日本人」は、前者も後者もそれぞれ"Ameriican"や"Japanese"だが、「イギリス人」は前者が"English"で後者が"Englishman"であり、「スペイン人」は前者が"Spanish"で後者が"Spaniard"と、それぞれ異なる表現を使っている。

 話が少しややこしくなるが、次の文を見ていただきたい。

  8.頭が痛かったので、薬を飲んで、病院へ行った

は、2と3のように、文法的に二つの構造がある。すなわち、「頭が痛かったので」が「薬を飲んで」に掛かるか、「薬を飲んで病院に行った」に掛かるかの違いがあり、後者は「薬を飲んで病院へ行った」のは「頭が痛かった」のが理由であるのに対して、前者は「頭が痛かったので」という理由は「薬を飲んで」だけに掛かり、「病院に行った」のは「頭が痛かった」とは無関係ということになる。

 そして、この二つの意味を常識として考えると薬を飲むことも病院へ行くことも頭痛を治す手段になるので後者の解釈の方が合理的に見える。

 ところが、コミュニケーションの場を考えると(第10話で述べた語用論の見方をすれば)、8の文の話者が医者や看護師の場合は当然頭が痛くても痛くなくても職場である病院に行くわけで、前者の解釈の方が可能性が高くなる。

 このように言語のいろいろなレベルで曖昧性が生じ、またいろいろなレベルでそれが消されていることは面白い。

(2013.9.20) 

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18.役に立つ本を「勧める」か「薦める」か??

 最近(2013年9月)、文化庁から前年度の「国語に関する世論調査」が発表された。その結果の概要はインターネットで公開されているから興味のある方は見ていただきたい。  その中に「同訓の漢字の使い方について」という調査項目がある。

 まず、「文章を書くときに、漢字の選び方で迷うことがあるか、それとも、ないか」という質問がある。結果は、


     第1図

となっている。母語の使い方で迷うことがあると回答した人が4分の3もいるということは何を意味するのだろうか。その謎は次の項をみれば分かってくるだろう。次のような訓読みの表現を使うとき、どのような漢字を選ぶか、という質問である(訓に下線が付けてある)。

  (1)会議で決を
      取、採、執

  (2)痛みがおさまる
      収、納、治

  (3)標高をはか
      測、計、図

  (4)役に立つ本をすすめる
      進、勧、薦

  (5)委員長をつとめる

      努、勤、務

となっている。さて、あなたはどれを選んだだろう。「選ぶのが一般的だと考えられる」ものとして次の漢字があげられている。

  (1)採 (2)治 (3)測 (4)薦 (5)務

これらの漢字のうち他の選択肢と接近していたのが(4)の薦(56.7%)で勧(30.4)と進(7.2)とが続いた。次が、(1)の採(59.1)で取(19.9)と執(11.8)とに分かれていた。 

 回答者の年齢別で目立つのは(4)で、


     第2図

これは「進」と二つ以上の回答は省略してあるが、多少でこぼこはあるにしても「薦」は若くなるほど少なくなり、「勧」が増えている。近い将来この二つが逆転するのではないだろうか。

 この現象の原因と考えられるのが、日本語への漢字の取り入れ方と現代の漢字の使い方によろう。

 日本語で漢字を用いられるようになったとき、日本語のことばの意味と漢字の持つ意味を組み合わせた。これが漢字の訓読みである。一方、漢字が持っていた中国語の音に近い日本語の音を日本語の漢字の音にした。これが音(おん)読みである。

 そこで日本語本来のことばの意味では区別しなかった意味を持つものが異なる漢字で表されるようになり、日本語のことばに新たな意味区分が生じたと思われる。

 また、日本語の使い方では、話し言葉ではあえて漢字を考える必要はない。一方、書くときは仮名でも使えるが、漢字を用いるなら複数ある漢字の候補を選ばなければならない。このような事情から、漢字を選ぶときに迷いが生ずるのであろう。したがって、どの意味にはどの漢字ということをあまりやかましくいう必要はないのではないかというのが筆者の考えである。その点、文化庁の報告で調査の回答の「正解」にあたるものを、あえて「選ぶのが一般的」としたのは好感が持てる。

参考文献

草薙 裕 1988 「語と語の意味関係」、金田一春彦、林大、柴田武編『日本語百科大事典』大修館書店。

文化庁 2013 「平成24年 国語に関する世論調査」(http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/h24_yoronchosa.pdf)

(2013.10.5)

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19 敬語は語用論なしでは語れない!!

 前話では漢字の選択に迷うことがあるとした日本人が4分の3に上ると述べたが、それ以上に難しいのが敬語の使い方である。

 しかも、文化庁の「国語に関する世論調査」の結果の概要によると、平成23年度の調査では、「社会生活を営む上で」敬語を使いたいという回答者が、実に92.5%に上っているのに対し、「日常生活で、どの程度敬語を使っているか」という問に対しては、73.9%の回答者が使っていると回答している。これを見ても使いたいが、使えないという人がかなりいることが分かる。

 では日本人にとって使うのが難しく、よく間違うのはなぜなのか。それを一言で言えば、普通の表現と違って、コミュニケーションの場面のいろいろな要素が関わり、それによって表現が違ってくるためだからである。まさしく敬語は第10話で論じた語用論を抜きにしては論じるわけにはいかない。

 たとえば子供に隣の小母さんの、    

   どこへ行くの?

という質問に対して、子供は、

   公園に行くの。

と答えたとする。これは、「~へ行く」という表現の枠を使った質問に対して、「~」のところだけを入れ替えて、同じ表現の枠で答えている。普通、子供が母語を獲得する過程で、周りの人が使う表現を繰り返すことで表現を覚えていくと考えられる。

 それに対して、敬語の表現は、隣の小母さんが、

   お母様、いらっしゃる?

と子供に聞いたのに対して、同じ表現を使って、

   うん、いらっしゃるよ。

では敬語の間違いになる。もちろん、小さな子供に敬語を使えというのは無理で、

   うん、いるよ。

でいいのだが、これも繰り返しではない。敬語を習得するには、やはり、適切な学習が必要になるわけである。

 本稿では、どんな語用論の要素が関わっているかを見ることにしよう。

   話し手
   聞き手
   行為者
   行為の受け手
   上下関係
   内と外の関係
   会話の場

がそれだが、この中で、「話し手」とは会話で文を発する人であり、「聞き手」はそれを受け取る人である。文章になると前者が「書き手」で後者が「読み手」となるが、あえて区別せず、「話し手」、「聞き手」を使おう。「行為者」とは話し手が述べる話題の行為(あるいは状況など)の主のことをいう。

 「行為の受け手」とは分かりにくいかもしれないが、話題の行為が他の人物に影響を与えることがあり、その人物が「行為の受け手」である。たとえば、

  AがBに話す
  AがBを押す
  AがBに手紙を書く

におけるAが行為者で、Bが行為の受け手ということになる。

 以上の要素は人物であるが、次の「上下関係」と「内と外の関係」は上の人物の間の関係である。「上下関係」は敬語表現を用いるかどうかの決め手だが、原則として、二人の人物の上下関係が存在するかどうかは、その二人が同じグループ(家庭、学校、職場など)に属しているかどうかに係っている。その同じグループでの関係を「内の関係」といい、「内の関係」がないことを「外の関係」という。さらに、外の人間には自分の内の人間をあたかも自分であるかのように敬語を使う。「内と外の関係」は日本語の敬語では非常に重要な要素であるが、いずれ論じよう。

 最後は「会話の場」が公的なものかそうではないか、また、話し手と聞き手以外にも第三者がいるかどうかなどが敬語の使用に関わってくる。

 さて、これらの要素が絡んで敬語表現が成り立つわけだが、上記の要素がどのように関わって敬語表現ができあがるかを次回でできるだけやさしく解説するつもりである。

参考資料

文化庁 2005「平成17年 国語に関する世論調査」http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h17/kekka.html

文化庁 2011 「平成23年 国語に関する世論調査」http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h23/pdf/h23_chosa_kekka.pdf

(2013.10.20)

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20.敬語はシーソーに乗って!!

 本稿では敬語のメカニズムをなるべく分かりやすく解説するが、その前に、敬語はなぜ使うのかを考えたい。

 草薙(2006)を引用しよう。

 話し相手や自分が話題にする人を尊敬しているからこういう表現を使おうというのではなく、自分と聞き手や行為者との関係を考えた上で、どういう表現を使うのが適切かを判断し、それに沿った表現をつかうものである。...つまり、敬語がうまく使えるということは、日本人の言語社会で通用する「ことば」が使えるという、いわば日本語社会の会員証を持っているようなものなのである。といっている。我々日本人はいわば自己防衛のために敬語を使っているといっても過言ではあるまい。だからこそ敬語を使いたいと答えた人が95%にも上るわけだ(第19話を参照)。

 さて、敬語の中でもっとも分かりやすいのが尊敬語で、これは話し手が文の中の行為者に敬意を表す表現である。たとえば、話し手(自分)が上役(社長)に、

   A社には何時にいらっしゃいますか。

と問うような表現である。このように、尊敬語の場合、行為者が聞き手であることが多い。聞き手が行為者でない場合については稿を改めて論じる。

 敬語の中で恐らく多くの人が間違ったり、迷ったりするのが謙譲語と丁重語の区別である。例を示そう。

  申し上げます    ~ 申します
  伺います       ~ 参ります
  ご案内いたします ~ 案内いたします

はそれぞれ左側の表現と右側の表現は機能が違い、左側が謙譲語で右側が丁重語である。

 この二つを混同する原因はどちらも話し手の行為を表したものある。そのため、かつては両方とも謙譲語といわれてきた。2007年に公表された文化庁の文化審議会答申「敬語の指針」ではこの両者を分けているが、前者を謙譲語Ⅰ、後者を謙譲語Ⅱ(丁重語)としていて依然としてどちらも謙譲語の枠に入れている。この二つは機能が全く違うから別物として扱うべきだというのが筆者の考えである。

 では、どう違うのか、図で説明しよう。

 この二つの機能を説明する前に、図自体を説明しよう。これは草薙(2006)で筆者が提案したものだが、この著書の執筆の段階で編集を担当した「くろしお出版」編集部の斉藤章明氏が読者の立場に立って、分かりにくいところを指摘したり説明について提案したりしてくれた。筆者はこの図を「シーソー効果」と名付けたが討議を何度も繰り返した結果の産物であるといえる(イラストは著書のものとは異なり筆者自身が描いたものである)。

 さて、前置きが長くなったが、本筋に戻ろう。


      第1図             第2図

 まず、図1と図2を見ていただきたい。シーソー効果とは、話し手が自分を下げることで相手を上げる敬意を表す表現にすることを指す。したがって、図1と図2はすべて話し手が自分の乗るシーソーを下げている(黒の矢印)。さらに、その結果上がったシーソー(白の矢印)に乗っている(敬意を表されている)相手は図1は枠の中の(すなわち、文中の)「社長」(行為の受け手)である。これに対して図2は枠の外の「課長」(聞き手)がシーソーに乗っている。

 この上がったシーソーに行為の受け手が乗っているのが謙譲語で、聞き手が乗っているのが丁重語なのである。すなわち、行為の受け手に敬意を表すのが謙譲語で、聞き手に敬意を表すのが丁重語ということである。


     第3図

 なお図3は尊敬語だが、これはそのまま行為者に敬意を表すもの(すなわち話し手が行為者を直接上げている<黒い矢印>)であるからシーソーはいらない。

 話が長くなるので、本稿はここまでにして、これらの表現が実際にどのように使われるか、また丁寧語については次話で論じよう。

参考文献

草薙 裕 2006 『敬語ネイティブになろう!!』くろしお出版。

文化庁  2007 「敬語の指針」(文化審議会答申) http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/soukai/pdf/keigo_tousin.pdf/。

(2013.11.5)

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21.敬語は適語適所??

 筆者がアメリカの大学の成人教育で日本語を教えていたときのことである。敬語について、中年の女性の受講者から質問があった。(聞き手である)先生に自分の会社の社長のことを話すときどちらに対して敬意を表すべきかということであった、たとえば、「社長が日本へ行った」を伝えるのに、

 1.社長が日本へいらっしゃいました。
 2.社長が日本へ参りました。

のどちらを使うかという問題である。1は社長を上げた尊敬語であり、2は先生(聞き手)を上げた丁重語である。また、

 3.(私が)社長に申し上げました。
 4.(私が)社長に申しました。
は3は社長を上げた謙譲語であるのに対し、4は先生は(聞き手)を上げた丁重語である。 まず、第19話で述べた内外の考えを適用すべきである。すなわち、話し手が先生と社長のどちらを内の人間だと認識しているかということである。まず、話し手が社長を自分の所属する会社の人間だと意識し、先生はその会社の外の人間だと考える場合である。話し手は外の人間(先生)に対してうちの人間(社長)のことを、自分と同じように扱うのである。したがって、この場合、2と4が正解となる。

 また、話し手が先生の方が自分の属する学校のメンバー(すなわち内の人間)と意識すれば、3が正解になる。また1と2は使わず、敬語抜きの「行きました」を使う。

 敬語において内の人間を話し手自身と同じに扱うのは敬語の鉄則である。

 動詞に伴う名詞も、

  父    お父さん(さま)
  母    お母さん(さま)
  兄    お兄さん(さま)
  妹    妹さん(さま)
  おじ   おじさん(さま)

などの対が存在し、左側が自分の身内(内の人間)、右側が外の人間を表す表現なのである。 そこで、たとえば社内(内の社会)では上司(社長など)を上げ尊敬語を使い、

 5.社長、空港にいらっしゃいますか。

という。それに対して、社外(外の社会)の人に対しては社長(内の人間)のことを話すときあたかも自分自身について話すように扱い、

 6.社長は空港に参りました。

という。この転換が非常に難しいようだ。

 次に、以下の質問があった。


     第1図

図1のように動作の相手と聞き手が同一人物であるとき、動作の相手としての社長を上げて謙譲語を使い、

 7.お宅へ伺います。

を使うが、聞き手である社長を上げて丁重語を使い、

 8.お宅へ参ります

も可能ではないかというのが質問の趣旨である。確かにたとえば菊池(1997)はこのような場合丁重語の「参ります」が可能であるとしている。

 まず、8のお宅は謙譲語にともなう名詞であり、丁重語の場合、理屈からいえば「家」を使わざる得まい。さらに、もう一つ例を挙げると、

  9.お名前は存じ上げております。
 10.お名前は存じております。

は9が謙譲語で、10が丁重語である。9の「お名前」は謙譲語の名詞といえるが、10の方は単に文を丁寧にする丁寧語の名詞と考えられるので、名詞の問題はないが、筆者の直感では9の方が10に対して敬意が高い。敬語では話題の中の人物を上げるのが原則であり、その手段がないものには丁重語を使うのが原則であるというのが筆者の考えである。したがって、図1のような場合は動作の相手が聞き手であれば丁重語は使わず謙譲語を使うというのが質問の回答である。

 最後に、丁重語と丁寧語の違いのついて述べよう。丁重語はすでに何度も論じたように話し手が自分を下げることで聞き手を上げ敬意を表するものである。これに対して、「です」、「ます」に代表される丁寧語は特にに敬意を表するものではなく、文を丁寧にするものである(文を丁寧にした結果、間接的には聞き手に対する配慮が生じるが)。さらに、丁寧語は「いらっしゃいます」や「参ります」のように他の敬語とともに用いる(とくに文末の丁重語は丁寧語を抜くわけにはいかない)。したがって、特定の人に敬意を表する尊敬語、謙譲語、丁重語とは異なるレベルに属するものといえよう。

参考文献

菊池康人 1997 『敬語』、講談社学術文庫。

(2013.11.20)

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22.コンピュータはことばが話せるようになるだろうか??

 今回はコンピュータが、人間が日常使う日本語や英語のような言語(これを自然言語というが)をあたかも使えるようにするための研究を考えた見よう。

 コンピュータへの命令は曖昧ではコンピュータが何をやればいいか迷うので絶対、曖昧であってはならない。したがって、条件が同じなら、コンピュータは何度でも同じことを繰り返すといわれている。

 これに対して、自然言語は曖昧さが最も顕著な特徴だといえる。そこで、自然言語の曖昧なところを明らかにするとともに、曖昧であるにもかかわらず誤解することなくそれを人間が理解しコミュニケーションをしている要因を解明するのがこの分野の研究ということになる。この分野をコンピュータ言語学あるいは計算言語学と呼ぶ。

 この言語学の分野の仕事を考える前にひとつ明らかにしておきたいことがある。それは冒頭で、コンピュータは同じ条件なら同じ動作を繰り返すと述べたのに対し、待てよ、囲碁や将棋などで先手のコンピュータがいろいろ異なった場所に石を打ってきたり、異なる駒を動かしたりしてくるではないか、といわれる向きもあるだろう。

 これはコンピュータが普通の動作と異なるメカニズムを内蔵しているからだ。その謎はRANDOM(ランダム)という命令だ。これは異なる数を無作為に生み出す命令なのである。たとえば、10を指定すると0から9の数を無作為に返してくる。この場合、出てきた数に異なる条件を与えてやると表面的には唯一の条件であるのに、内部ではいくらでも異なる条件を利用するようになるからどんな動作でも可能になるのである。なぜこんなことが可能かというと、簡単に言えば、内蔵の時計の時間を元にそれを掛けたり足したり、桁を操作したりと大変複雑な計算をした結果が無作為の数を出すことを可能にしているのである。

 次の数の羅列は筆者がコンピュータに無作為に出させた0から9の数の羅列で、その内、30個を示したものである。

   9 5 5 9 1 7 5 4 2 9 8 8 9 6 2 6 7 7 2 6 3 8 9 4 9 0 2 3 6 7

この数列を見てこれを無作為の数列といえるのかと思う方もいるだろう。人間ならはじめから異なる数字が同じ割合で出てくるものだと考えるだろうが、このようにある数字が多く出てきたりあまり出てこない数字があったりするのがそもそも無作為の結果なのだと考えるべきであろう。そしてたくさんの数字を出していけばいくほどそれぞれの数字の数が平均化するものなのである。

 さて、もとに戻って、コンピュータ言語学は曖昧さの究明だけが課題ではない。現代言語学は言語の構造ばかりに集中してきた。1960年代に言語の研究を大きく発展させたアメリカ人言語学者のノーム・チョムスキー氏の言語理論は変形生成文法と呼ばれるが、ある考えをいかに文にしていく(生成していく)かというプロセスを研究するものではない。たとえば、友人が話者がいるところに現れた、その理由を聞きたい、という状況でどう質問文を生み出していくのか、というようなことを解明した論文はほとんどない。日本語なら、

  1.なぜここに来たの。

が妥当なところだろう。もちろん、敬語を使った表現もあるだろうが、それを生み出す要因は前の話で述べたように語用論の議論が必要になってくる。さらに語用論の別の要素が入ってくると、

  2.君はここに来るべきではないのだ

ということを示唆していることもある。筆者は若いとき英字新聞の記者をしていたが、ある日、記事を書くための資料を調べるために、本社(日本語の新聞社)の編集局に出向いた。入り口に見かけない守衛がいたが知らぬ顔でどんどん入っていくと。「もしもし、どちらへいらっしゃるのですか」と呼び止められた、新聞社の編集部はガードが堅い。「おまえは入ってはいけない人間だ」と決めつけられたわけだ。まさしく、上記の2である。もちろん、自分が何者かを説明したら、「大変失礼しました」で、一件落着したが。

 ところで、日本語で1のような文が出る状況で、英語ではどういうだろう。多くの日本人は1に対応した(と思っている)、

  3.Why did you come here?

が出てくるだろう。ところが、

  4.What drove you here?

の方がはるかに英語らしい表現なのである。

 さらに、文を分析した結果の意味あるいは概念(これが又、文を生成する元になる)をどう記述するかもコンピュータ言語学にとっては非常に大きな課題であるが、言語学ではほとんど手が付けられていない。

 本稿では、RANDOMという脱線のせいで長くなったので、細かいことは稿を改めて論じることにしよう。

(2013.12.5)

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23.きしゃのきしゃがきしゃできしゃした??

 本稿はコンピュータの仮名(ローマ字)漢字変換(以下、漢字変換と略す)を見ながらコンピュータに言語を「教える」ための研究(これをコンピュータ言語学、または計算言語学という)を論じてみよう。

 かつて、漢字変換に「つくばだいがく」と入れると、

   筑波だ医学

と出してきた。もちろん、「とうきょう」とか「きょうと」などの大学の名前に変えても必ず「だ」が現れたものだ。これは、この変換に日本語の文法が全く応用されていないことを示している。すなわち、助動詞の「だ」は名詞と名詞の間には入らないという文法規則を適応すれば、上記の変換の結果は、

   筑波大学

になるはずだからだ。

   漢字変換にコンピュータ言語学の成果を入れるのは、この分野の初歩といってもいい。したがって、最近の仮名漢字変換は上記のようなミスは出ないばかりか、かなり上手な変換をするようになった。

 では、標記の表現を漢字変換のシステムを使って漢字混じり文にしてみてほしい。恐らく、

   貴社の記者が汽車で帰社した

と出てくると思う。この文は漢字変換の有名な例で、本来はこう、うまくいかないはずだ。漢字変換のシステムではいわゆる学習機能というものがあり、直前に選ばれた漢字が次の操作で最優先されるようになっており、一つの文の中に同音異義語があった場合、みんな同じ漢字になってしまうことが多いからだ。

 そこで、コンピュータ言語学の研究の成果を取り入れ変換がうまくいくように工夫するわけである。では、上記の漢字変換の結果を分析してみよう。

 まず、「きしゃが」は動作の主体である名詞は(必ずしもそうとはいえないが)人間であることが多い。そこで「きしゃ」という名詞の中で人間を表す「記者」が選ばれる。その前にある「きしゃの」は「記者」を修飾するわけだが、団体を表す「貴社」が出てくる。さらに、「きしゃで」は「で」が道具ないし手段を表すことが多いから「汽車」が出てくる。最後に、「する」が付く名詞は「動き」を表すものであるから、当然、「帰社」になる。このように文法の規則が漢字変換のシステムに組み込まれていれば上記の変換はまさしくコンピュータ言語学の成果が活用されているといってよい。ただし、変換前の仮名だけの表現に「貴社の記者が...」が辞書に載っていたら、文法なしで、変換がうまくいったような結果が出てくるのだ。でも、こういう表現を細かく辞書に盛り込むと、コンピュータの辞書が膨大なものとなってしまう。ただ、最近はコンピュータのメモリーがどんどん大きくなってきたので、この問題は心配しなくてもいいのかもしれない。

 さて、文法が入っているか、辞書だけの対応かを調べてみよう。まず、次のようなデタラメな仮名の列を変換させてみよう。

   きしゃががきしゃにきしゃできしゃをきしゃした

変換の結果はどうだろう。筆者の場合、

   貴社が貴社に汽車で貴社を帰社した

と出てきた。さらに最初の「きしゃが」のところに「記者」を入れると以後、次のようになった。

    記者が記者に汽車で帰社を帰社した

これで分かることは、上記の例のうち、「汽車で」の手段と動作を表す名詞による「帰社する」という文法規則は入っていることが分かるが、他の助詞の文法は参考にしていないことが分かった。

 これでシステムを批判するのは酷である。むしろコンピュータ言語学の研究を促進し、その成果をシステムに適応するようにすべきである。

(2013.12.20)

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   あけましておめでとうございます

              皆様の御多幸を祈ります


24.新年を迎えて

 お陰様でこの欄は次回で一年を迎えます。これからも興味ある話をなるべく分かりやすくお届けするつもりです。これからもご愛読のほど、よろしくお願い致します。

 さて、上記の年賀のことばといえば、日本語と英語の間の違いが思い出される。

 筆者がアメリカの大学で教えていたとき、クリスマスの休暇で家に帰るからと日本語専攻の学生が研究室に挨拶に来た。そして帰り際に、「あけましておめでとうございます」といって出て行こうとした。筆者は、「ちょっと待った」と止め、その表現はなんと習ったのかと聞いた。すると、"A Happy New Year"の訳だと習った、という。

 この日本語の「あけましておめでとうございます」と英語の"A Happy New Year"は新年の挨拶という共通点はあるが、意味が異なり、その結果、異なる使い方をするのだ。まず、新年(元旦以降)は挨拶としてどちらも使う。ところが"A Happy New Year"の方は"I wish you a Happy New Year"を短く表したもので、いわば、「よいお年を」と同じ意味で、したがって、年末にも使うのだ。

 また、この"I wish you ....."は「あなたにとって幸せな新年を」と祈っているわけだから、受けた方は"Thank you. The same to you"というように、まず、祈ってくれたことに対して礼をいう。ところが「あけまして...」の方はお互いに新年を祝い合うのだから「ありがとう」とはいわない。筆者がアメリカで生活しているとき、いつも新年にこの"Thank you"を忘れ相手に失礼をした。そして、「あっ、いけない」と直すのだが、一年後、また同じことを繰り返したものだ。

 ところが、筆者が大学の三年の時、正月に会った上級生に「おめでとうございます」というと「ありがとう」と返されて面食らったことがある。実はその上級生(いまは先輩ということばが使われているが)はなかなか就職が決まらなかった(当時は殆どの学生が年内に就職先を決めていた)のが、ようやく年末ぎりぎりに会社から内定をもらったのだ。彼にとって、新年より自分の就職の方が目出度かったわけだ。 

(2014.1.1)

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25.超お勧め外国語習得法!!

 本シリーズでは、主にことばの面白いところを取り上げているが、ちょっと趣を変えて筆者が学生時代に実施した外国語習得法を披露しよう。

 一つは会話の練習で、もう一つは作文の訓練である。そのうち、前者を本話で取り上げ、後者は後日扱うことにする。

 英会話の訓練は大学生時代に行ったものだ。まず、英語の会話に適した本を手に入れる。日本語と違って英語は話し言葉と書き言葉にあまり違いがないが、なるべく分かりやすい文章が載った本を選ぶようにしよう。たとえばWilliam Clark(2006)は適切な本の一つである。これは筆者が学生時代に出たものだが、何回か改訂されたものが今でも書店に並んでいる。入門、初級、中級、上級用と揃っており、自分に合ったものが選べる。さらにCDも付いているのでテキストを聞くことも出来る。もちろん他にも適切なものがあるだろうから自分が一番使いやすいと思ったのを選ぶのがいいだろう。

 本を手に入れたら、音読する。音読とは声を出して文章を読むことだ。それを何回も何回も繰り返す。最初は何も考えないでひたすら音読を繰り返す。しばらくすると音読している文章の背景が頭に浮かんでくるようになる。この辺りで文とその意味が頭の中で自然と結合するようになるのだ。さらに、音読を繰り返せば、何かの状況に出くわしたとき、自然と英語の文が口から出てくるようになる。そうすればしめたものだ。

 これは音読しているとき、それを自分の耳が覚えてしまう。そして、ある状況に応じた文がほしいとき、自然に口から出てくるわけである。

 文を暗記することを薦める人もいるが、暗記は無理矢理文を頭に入れなければならないし、長い文を暗記することはかなり難しい。また暗記で覚えた文はなかなか状況と結びつかない。それに対して音読はただ文章を声を出して読むだけなので、暗記よりはるかに楽に実行できる。

 ただし、音読をするには集中力が必要だ。音読をしているとき、他のことに気を取られたりすると、音読が耳に入らず無駄なことをしていることになる。筆者は大学時代、他の寮生より一時間ほど早く起き、近くの四谷のお堀端を行ったり来たりしながら音読をした。早朝なので行き交う人もまばらで十分集中力が持続できた。この方法を誰に勧められたか記憶が定かではないが恐らくアメリカ人のスピーチが専門の先生だったように思う。

 ただ、音読だけをやっていても外国語会話がマスターはできない。当然、発音、文法、講読などを平行させなければならない。

 これを実行すれば外国語会話の実力が十分付くのは請け合える。

参考文献

Clark, William 2006 『アメリカ口語教本』<最新改訂版>(入門用、初級用、中級用、上級用)研究社。

(2014.1.20)

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26.英語で考える??

 前話に続き、今回は文を書くための訓練について筆者の方法を述べよう。この方法は最初から自分が英語の文章を書く練習を目指したものではなかった。いわば副産物である。

 筆者がアメリカの大学の大学院に留学していたときの話である。アメリカの大学院ではどの授業もかなりの数の専門書を読まされる。それを通り一遍読んだだけでは理解も難しいし、ましてや覚えることも覚束ない。そこで筆者が考案したのは、まず読みながら重要だと思うところに下線を引く。実例を示そう。次の文はアメリカの言語学では古典になっているBloomfield (1933)の書き言葉に関する記述の一部である。

Writing is not language, but merely a way of recording language by means of visible marks. In some countries, such as China, Egypt, and Mesopotamia, writing was practised thousands of years ago, but to the most of the languages that are spoken today it has been applied eitherr in relatively recent times or not at all. Moreover, until the days of printing, literacy was confined to a very few people.

これに下線を引いてみよう。結果は次のようになった。

Writing is not language, but merely a way of recording language by means of visible marks. In some countries, such as China, Egypt, and Mesopotamia, writing was practised thousands of years ago, but to the most of the languages that are spoken today it has been applied eitherr in relatively recent times or not at all. Moreover, until the days of printing, literacy was confined to a very few people.

 次は、これが重要なのだが、下線の部分を手で写す。下記の例は手書きにはできないので活字にしてある。その写した文を読み、さらにその中の重要な部分に下線を引く(下の例ではすでに下線が引かれている)。。

Writing is not language, but merely a way of recording language.

To the most of the languages writing has been applied eitherr in relatively recent times or not at all.

Until the days of printing, literacy was confined to a very few people.

 これを繰り返す。

Writing is a way of recording language.

Writing has been applied eitherr in relatively recent times or not at all.

 この文章は簡単なので、最後にキーワードが一つ残った。

Writing

 専門書の読み方としては、このキーワードが文字通り理解のキーになる。このキーワードからその前の段階の説明がよみがえるか。だめならもう一つ前の段階に戻る。このように元のテキストとキーワードの間を行ったり来たりするうちにテキストが理解できるというわけである。

 さて、今まで述べた専門文の理解のための勉強が副産物として英語の作文の練習に役立てることができる。要は、英文の内容に集中して理解しながら、その要約を手で移すことを繰り返し、原文と最後のキーワードの間を行ったり来たりする。そして、英文の内容がよく理解できた頃には文型や語彙が頭に入っているのである。

 この方法も前話の音読同様、必要なときに文型や語が自然に出てくるようになる。

 実際に会話をしたり文章を書いたりするときに、音読と手による文の模写によって頭に蓄えられ、自然に出てくる文型や語彙を使えば本物の英語の文になるのである。

 筆者は日本語から英語へ、また英語から日本語への翻訳はうまくできないから殆どしたことがない。それは、日英の翻訳では日本語で考えるからうまい英語にはならない。また英日の翻訳では英語で考え日本語で書くからこれもうまくいかない。ところが英語で文章を書くときは上記の方法で蓄積した文型や語彙を使い英文で書けばそんなに苦労はしない。英語で話すときも同様である。英語で話したり書いたりするときは標題の「英語で考えろ」とよくいわれる。しかし、外国語で考えることはそう簡単ではない。ところが、上記の方法で自分が使える文型や語だけを組み合わせていくのがいわば「外国語で考える」ことになるのだ。

 もちろん音読にしろ模写にしろ勉強の近道ではない。毎日少しずつ積み重ねなければならないが是非挑戦してほしい。筆者は必ず報われると確信している。  

参考文献

Bloomfield, Leonard 1933 Language, Henry Holt and Company.

(2014.2.5)

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27.あなたは耳人間?目人間?それとも!!

 1950、1960年代の外国語教育で一世を風靡したオーディオ・リンガル法(Audio-lingual Method)の開拓者の一人であるRobert Lado教授の下で外国語教授法を学んだ筆者は教授の新しい仮説のデータ集めを手伝った。教授の仮説は外国語習得には耳から情報を入れた方がより効果が上がる「耳人間」と目から情報を入れた方がより効果が上がる「目人間」があるというのだ。耳人間なら録音したものを聞くことでよく頭に入るのに対して、目人間は文字で書かれたものを見たほうがよく頭に入るというわけだ。

 同じことを覚えたり理解するにも目人間はメモをとって、それを確認すればよい。それに対して耳人間はレコーダーに録音すべきであろう。

 ちょうどその頃、筆者の日本語の授業に言語学を専攻している学生がいた。当時、前述の通り、Audio-lingual Method(聞くことと話すことから始める教授法)が全盛期で文法などは教えなかった。この言語学専攻の学生は文型の練習でもたもたして落ちこぼれ気味だった。そこで、筆者は言語学を専攻しているのにどうして日本語がうまくいかないのか、と聞いた。彼の答えは、自分は文法の規則が分からなければ何も頭に入ってこない、ということだった。筆者は前述の耳人間、目人間のほかに「頭人間」がいることに思い至った。もちろん、このことはすぐLado教授に伝えたが、直後に大学を移動したので、教授の仮説がどう展開したのかは定かではない。

 その後、20世紀の後半に変形生成文法という理論を提唱し言語理論を塗り替えたNoam Chomskyというアメリカの言語学者が、それぞれの言語の基本は生まれつき人間の頭の中にあるという説を提唱し、外国語教育の中に文法が復活した。いずれにしても、自分が何人間かを見極め、それに適した訓練をすれば効果が上がるはずだ。ただし、一つの方法だけに頼らず、それを中心に他の方法もやらなければ片手落ちになる。第25話の音読はテキストを読むわけだから目人間用、その音読を自分の耳がきくわけだから耳人間用で、両方が協同しているわけだ。

 外国語学習には王道はない、といわれるが、自分の特徴を知り、それをうまく取り入れたら必ず近道(効率のいい方法)があるはずだ。

(2014.2.20)

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28 バタ臭い日本語!!

 筆者は外出する(特に旅行する)とき、必ず文庫本を携帯する。それは電車の中や時間が空いたとき、暇つぶしに読むのだ。文庫本はかさばらず、軽いので都合がいい。 何年か前に奈良の学会に行ったとき小説で”The Hunt for Red October"(Tom Clancy著)の日本語訳(『レッド・オクトーバーを追え』上下、1985、文春文庫)を持って行った。その中に次の文があった。

  1.軍用機は居心地のよさでは知られていない
  2.彼は、この会議が愉快なものになるだろうという期待は抱いていなかった

 読者の方はこの二つの文をどう思われるだろうか。はっきりいって、いい日本語の文とはいえない。いわゆるバタ臭い日本語である。バタ臭いくさいとは、当時バターを食す欧米人のが書いたような日本語ということで戦前はよく用いられた。言語学では絶対に必要なデータがこのように小説にもごろごろしているのだ。

 さて、1と2を見れば、英語の原文が想像できる。それを確かめなければ学問にならない。そこで京都経由で帰るところを変更して大阪にまわり大きな本屋へ行った。幸いにも原本があった。予想通り、

  3. ...military aircraft are not known for their creature comfort.
  4. He had not expected this meeting to be pleasent one.

これでお分かりだろう。3の英文では意味からいえば"confort"が否定されている。また、4では"pleasant one"が否定されている。同様に日本語でも(1)の「居心地がよい」と(2)の「愉快なもの」が否定されている。

 それが英文の形では否定が文の前へ前へと移動する。そして、3では"are known"のところに、また4では"had expected"のところに潜り込んでいる。

 ところで、日本語は否定が逆に後ろへ移動する。たとえば、

  5.昨日東京へ行った

の「東京」を否定すると、

  6.?昨日東京でないところへいった

とはならず(文頭の「?」は文の成立が怪しいという意味で付けてある)

、   7.昨日東京へは行かなかった

となる。すなわち、否定は「東京でないところ」から「は」を痕跡にして、動詞の中に潜り込むのだ。

 これでいくと、1も2も成り立つようだが、英語と違って日本語では否定はどこまでも後ろへ行けるとは限らない。すなわち、途中でストップする機能が存在するのである。

  8.明日来ない人は届け出なさい

  9.今日は大雪にならないといった

の否定が後ろへ移動したらそれぞれ、

 10.明日来る人は届けないように

 11.今日大雪になるとはいわなかった

となり、10は誰が届けるか明確でなくなるし、11はなんといったかが明確でなくなる。このように否定は8のような連体修飾節(「明日来ない人」)や引用節からは抜け出して後ろへは移動できないのだ。

 説明が長くなったが、この制約の違反が1と2のバタ臭い文の原因なのである。 ところで、面白いのは英文の否定の移動は意味には関係がなく単に文の規則に過ぎない。だから、

 12. ?I think that he won't come.

ではなく、

 13. I don't think that he will come.

といわなければならない。

 なお、本稿は草薙(1991)の一部を大幅に書き換えたものである。

参考文献

草薙裕 1991 『日本語はおもしろい--考え方・教え方・学び方』講談社。

(2014.3.5)

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29 点か空間か??

 まず、次の表現を見ていただきたい。

   この講義は2時までだ

は曖昧ではない。ところが、

   この列車は名古屋まで停まりません。

という表現は停まらない駅に名古屋が入るか入らないか曖昧である。入るとすれば当然名古屋には停まらない。入らなければ停まることになる。いや待てよ。名古屋を通過する列車はないから(新幹線の場合など)、名古屋には当然停まる、という人も居るだろう。この解釈は表現とは直接関係がない。仮に初めて乗ったローカルの列車でこのような表現が出てきたら困るだろう。ではどうすればいいか。この表現は本来、

   この列車は名古屋まで途中の駅には止まりません

であり、曖昧でない。しかし、省略の結果、曖昧になったのだ。

 このような曖昧な表現に気付いたのは、筆者がハワイ大学で教えていたとき、テストの範囲を”until Chapter 20"のようにいうと必ず何人かの学生が手を挙げ、"Chapter 20"は範囲に入るのか入らないのかと聞いてくる。では、最初の例はどうだろう。

   This lecture will be until 2 o'clock.

も曖昧ではない。その理由は「2時」や"2 o'clock"が点を表しているから、2時が入るかどうかということは問題にならないからである。

 ところが、英語の"until"や"till"は次に出てきた、たとえば"Chapter 20"が含まれるかどうか曖昧なのは、それを点と考えるか空間ととらえるかで二つの解釈が出てくるわけだ。もちろん学生にとっては大きな問題だ。厳密に曖昧さを取り除くなら"inclusive "か"exclusive"を付けることで「入る」か「入らない」かを明記することが出来る。ところで、日本の英語教育にはあまり出てこない、"through March 20"という表現があり、英語の新聞などにはよく出てくる。これはそこで指定した日を含むという意味が加えられており問題は起こらない。

 問題の場所を点ととらえるか空間ととらえるかを図示すると、点は図1のようになり、
点図
       【図1】

四つ目の点の名古屋まで、すなわち途中の二つの点には停まらないわけだ。ところが、駅を空間と捉えると、
空図
       【図2】

図2のようになり、「名古屋まで」が名古屋を含むので名古屋には停まらないことになる。

 ところで、

   正月まであと五日

はどうだろう。これは元旦に入った途端に日付が変わるから12月の日にちだけを数えることになる。これも「正月」の意味が影響しているわけだ。

 いろいろな場合を綿密に分析し、何が点になり、何が空間になるかを体系的に考えなくてはならい。これが言語学である。

 本稿も前稿同様、草薙(1991)の一部を大幅に書き換えたものである。

(2014.3.20)

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30 1日は24時間ではない??

 まず、次の二つの表現を見ていただきたい。

   1)1日おきに風呂に入る

   2)24時間おきに風呂に入る

ほとんどの方はこの二つの表現は疑いなく同じことを言っていると思うだろう。

 では、例を挙げて調べてみよう。(1)は、今日風呂に入れば、明日を空けて、あさって入ることになる。その後、入る日と入らない日が交互に続く。(2)の方は、今日午後10時に入るとしよう。そして、分かりやすいように風呂はかっきり1時間入るとすると(長湯するとのぼせる、というなかれ)、11時に出る。それから24時間たって風呂に入るのは翌日の11時だ。そして、1時間入って、出てくるのは午前0時になる。それから24時間おくと、次に入るのは翌々日の午前0時になる。

 要するの(1)は隔日に風呂に入るのに対し、(2)はほぼ毎日風呂に入るが風呂に入らない日も現れる。すなわち(1)と(2)は全く違ったことを指していることになる。そこで表題のようなことになる。

 さて、前話をお読みになった方はこのトリックがお分かりだろう。これも「まで」と同じように点と空間の問題なのである。「1日おき」の方は1日を空間と考える。そして その日に風呂に入れば何時に入っても何分あるいは何時間入ってもその日の空間が埋められたと考える。次の日は入らないから空間は埋まらない。それが交互に続くわけだ。(2)の方は時間を線上の点としてとらえるので、風呂から出た点と次に入る点の間が何時間かということになるので、前述の例のようになるわけだ。

 したがって、たとえば、

   (3)バスは1時間おきにくる

は、前に来たバスから次のバスがくるまでが1時間かかる、という意味になる。これならバスに乗り遅れることはあるまい。それに対して、1時間を空間と考えるると、
   (4)バスは1時間に1本来る

となり、この表現は何時何分に来るのかは分からない。当然(3)と(4)は違った場面で使われるわけだ。

 こう見てくると言語の表現は微妙だが、母語話者はこのような微妙な違いは考えることなく、それを使う場面場面で使い分けているのだ。ただし、このようなことを、日本語を勉強している外国人に説明することは容易ではない。

(2014.4.5)

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31 言語変われば発想変わる!!

 突然だが、次の英語の表現を見ていただきたい。

   1)What drove you here?

ごく簡単な表現だが、意味が理解できる日本人は少ないのではないだろうか。日本語では同じ状況では、

   2)なぜ、ここに来たのですか。

となる。(1)と(2)は発想が異なる。日本語では理由は「で」という助詞を使い、たとえば、

   3)台風で電車が止まった。

というようになるが、英語では理由を主語にして、

   4)The typhoon stopped trains.

となる。そこで、理由を聞くのにwhatを主語にすると、(1)のような表現になるわけだ。これを少し日本人にわかるようにするなら、

   5)What brought you here?

となるだろうが、まだ違和感があるだろう。

 また、日本語では、

   6)私は万年筆を3本持っている。

とはいうが、

   7)*この部屋は窓を二つ持っている

とはいわない(「*」は文が成立しないことを表す)。これは「持つ」の主語が人間や動物などでなければならないからだ。ところが英語では、

   8)This room has two windows.

のほうがむしろ英語らしい表現だといえる。

 第12話の"One please"は極端にしても、日本語の発想を外国語に持ち込むのではなく、その言語の多くの文に接することで、その言語特有の表現を習得してほしい。

(2014.4.20)

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32 1と2は違うが2と3は同じ??

 中学生の時、英語の単数と複数、それに付随する表現の使い方に戸惑った人も多いのではないだろうか。

 まず、同じペンでも"one pen"、"two pens"と表現が違う単数と複数がある。ところが、靴はone shoe、two shoesとはいわない。"one pair of shoes"、"two pairs of shoes"となる。また、"one Japanese"、"two Japanese"と単数と複数が同型のものもある。

 さらに、pebbleとgravelはどちらも「小さい石」のようだが、前者は単複の区別があるのに後者は単数の形しかない。

 筆者がアメリカにいたとき、日本語をかじったアメリカ人に日本語はなぜ単数と複数を区別しないのか、と聞かれたことが何回かあった。回答は明快!「夜、寝ているところに、ゴソゴソと泥棒の気配がする。そこで、あなたなら"Thief"と叫ぶだろう。そして、急いで電気を点けると、泥棒は二人いた。あなたは『ごめんなさい、間違いでした。"Thieves"でした』といわなければならないだろう。日本語では『泥棒!』だけで、一人でも複数でも問題ない。日本語の方が英語よりはるかに合理的だ。」

 また、かつて筆者の研究室にエジプト人の留学生がいて、時々日本語についていちゃもんをつけようとする。ある日、「先生、日本語はおかしいです。なぜ学生が一人でも五人でも『学生が一人』、『学生が五人』というのですか」という。

 筆者は、「なるほどおかしいね」と相手を乗せておく。そして、「君の国のことばでは『一つ』と『二つ』は違うね。また『二つ』と『三つ』も違うね(アラビア語には双数というのがあり、『二つ』は複数には含まれない)。では、『三つ』と『四つ』はなぜ違わないの」という。彼は「ウーン」と唸って退散となる。

 この二つの話は屁理屈に近いが、言語間で異なる使い方があるのはごく当たり前で、その言語を使うときはその言語における発想や規則に理屈抜きで従わなければならない。

 ところで、冒頭のpebbleとgravelの違いは日本語の「小石」と「砂利」の違いだと思えばよい。前者は一つ、二つと数えられるが後者は一つ一つ数えることが出来ず「一山」である。

(2014.5.5)

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33 文は2種類の構造を持っている!!

 文の構造の話をしよう。まず、次の文を見ていただきたい。

   団長が 団員に 旗を振って 応援させた。

この文は曖昧であるが、二つの意味が分かるだろうか。まず、この文の構造を見てみよう。なお、本来、文の枝分かれ図には語句の機能を表す句記号を示すが、ここではS以外省略してある(図2も図3も同様)。

図1

しかし、この図からは文が曖昧であることは分からない。そこで、図2と図3を見ていただきたい。
図2

図3

 図2と図3を比べてみると最初の文が曖昧であることが分かる。すなわち、図2と図3は「旗を振って」という表現の位置が異なっている。図2の構造は「旗を振った」が文の中の文(S)の中にあり、旗を振ったのは団員であるが、図3の方は「旗を振った」のは外側の文(S)の下にあり、したがって、旗を振ったのは団長ということになる。

 この二つの構造を提案したのは20世紀最高の言語理論を開発したノーム・チョムスキーというアメリカ人の言語学者である。彼の変形生成文法という理論では図1は文の表層の構造、すなわちS構造(表層のsurfaceから来ている)を表しており、図2や図3はその文の深層の構造、すなわちD構造(深層のdeepから来ている)を表している。

 図2は文の中の文(これを埋め込み文という)の中の主語の「団員が」が上の文の「団員に」に入り、「旗を振って」が上の文の中に昇格してぶら下がり、動詞の「応援する」が上の文の「させた」と合体するという変形により図1の表層の構造になるわけだ。図3も埋め込み文は図2にある「旗を振って」がないだけで後の部分の変形で図1となる。 

 チョムスキーは当初、S構造は音の情報を提供し、D構造は意味の情報を提供するとしていた。そしてD構造から変形の規則によりS構造になるが、変形の操作は意味を変えないと考えていた。しかし、新しいデータによってそれが否定され今ではS構造からも意味の情報が出てくるとされている。このことは項を改めて論じることにする。

(2014.5.20)

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34 変形が意味を変える!!

 33話で文の二つの構造と変形の関係の修正を述べることを予告した。次のデータはその関係を変更させたものの一組である。

   1)Many arrows didn't hit the target.
   2)Not many arrows hit the target.

 先にデータを示したのは、この文が日英語対照分析の観点からおもしろい現象を持っているからだ。二つの構造のことを述べる前にその現象を論じよう。  第28話で、英語では否定がどんどん前に出ると述べた。したがって、(1)の否定は文の一番前まで移動して(2)の文になるはずだが、(1)と(2)は意味が異なるため、(1)の否定を前に出すわけにはいかない。否定と、many、all、anyなどのいわゆる数量詞が文の中にある場合、その位置的関係で意味が変わるからである。数量詞が否定の範囲に入っているのと、否定の外にあるのとでは意味が異なるのである。  そこで、(1)と(2)の問題は後回しにして(3)と(4)を比べていただきたい。

   3)All didn't come.
   4)Not all came.

(3)は「みんな(all)が来なかった」だが、(4)は「みんな」ではない、すなわち「なんにんか」が来たことになる。(3)は全体否定なのに対して(4)は部分否定なのである。

 この違いはお分かりになったと思うが、では、(1)と(2)の違いはお分かりだろうか。(1)は「多くの矢が的を外れた」であるのに対して、(2)は「多くない矢」であるから、「少ない矢が的を射た」となる。日本語の発想からすると表現が異なることは分かるが、事実関係でいうと同じことをいっていると取れる。筆者はアメリカで生活しているとき英語の"many"は日本語の「多い」とどうも違うと感じていた。それは、英語の"many"が絶対的であるのに対し、日本語の「多い」は相対的であるように思える。したがって、日本人は(1)の「多くの矢が的を外れた」なら、(2)の「的を射た矢は少なかった」と同じことをいっているのではないかと思うのではあるまいか。ところが英語では、

   5)Many arrows didn't hit the target, and many arrows hit the target.

が成立する。すなわち、落ちた矢を見て"many"と感じ、さらに的を射た矢を見て、これも"many"だと思うことが可能なのだ。したがって、(1)は「落ちた矢」の数を述べ、(2)は「当たった」の数を述べているから直接関係がないわけである。

 さて、本題に入ろう。(1)の文と(2)の文をそれぞれ変形で受け身文にしてみよう。 なお、理論的には(1)と(2)を受け身にするのではなく、(1)と(2)の構造の中に受け身の要素を入れたものを表層構造に変形させるのである。その結果、(1)も(2)も、

   6)The target wasn't hit by many arrows.

のようになる。これは数量詞が否定の範囲に入っているから、(2)の文の意味と同じだが、(1)の方は(6)とは意味が異なる。したがって、Chomskyの変形は意味を変えない、ということの反証になり、変形生成文法はこの点、修正することになった。

(2014.6.5)

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35 外国語文のredundancyを利用して文章を読もう??

 標題にあるredundancyとはなんだろう。辞書を引くと、まず「冗長」なることばが現れる。おそらくなおさら解らないだろう。他に「代理機能性」または「余分なもの」というのがあるだろう。これが今探している意味に近い。

 さて、Shannon & Weaver(1962)は情報の伝達における記号には情報を持っているものと伝達に必要のないものとがあり、後者がredundancyであると述べている。さらに、これはもし情報がある記号の一部が何かの理由から伝わらなかった場合に、後者がそれに変わって情報を提供するものであるとしている。さらに、英語の場合、redundancyが全体の記号の約50%を占めると述べている。この数字は記号の数理的理論によるものであるから、我々が言語の文を見てどれが情報を担いどれが余分かは分からないが、文を検討するとなるほど、無駄も多いということが分かる。分かりやすいのでスペイン語から例を挙げると、

   Inés es una muchacha muy bonita.

という文は6つある語の内、4つが女性を表すシグナル(語尾の"a")がついている。また、我々が中学校で英語を習い始めたとき散々悩まされた英語の動詞のいわゆる3単現(3人称、単数、現在)も、

   He goes to school every day.

"goes"の"es"がredundancyであることがわかるだろう。ハワイで話されているいわゆるピジン英語(二つの言語が混成した言語であるが、言語学の専門用語としては母語話者がいないのがピジンで母語話者がいればクレオールという)では、

   ヒー ゴー ツゥ スクール エベリデー ヤー

といって、3単現が抜けている。なお、最後の「ヤー」は日本語の終助詞「ね」に由来する。

 このようなことから考えて、外国語の文章を読むときの効率のいい方法が思い浮かぶ。外国語の文章には意味を知らない語が混じっていることが考えられる。文章を読んでいるとき知らない語が出てきたら辞書を引いて意味を調べ次に進む。これが普通の読み方だろう。ところが分からないのは単に語の意味だけではなく、文法の使い方や一つの語の数ある意味の内どれが該当するかを考えなければならないものもある。これらのことを考えていると、文章の流れが途切れてしまうことが多い。筆者は外国語の文章だけではなく、日本語の文章を読んでいるときに語や文法の使い方に注意が行くことがある。たとえば、松本清張の文章には時の表現がユニークであり、「あ!こんな使い方をしている。次は何が続くのか」などを考えているとせっかくの推理小説の筋がどこかに飛んでしまって、また初めから読み返さなければならないことが多い。

 こんなことは稀かもしれないが、文の細かいところを調べるのはやめにして、どんどん先に進む方が、大筋がつかみやすい。そこで、前述のredundancyを活用してみよう。

 文章の中に分からない語が出てきたとき周りにその意味を補完するものがあるに違いない。そこで周りの文脈からその後の意味を類推して先に進む。この方法をとると、文章の流れを途切らせることなくスムーズに文章の言わんとすることが理解できるはずだ。

 では、実際の例を使ってみよう。次の文章は何回か参考文献として出したクラーク(1986)にある文章の一部である。

The United States ia noted for its many parks and places of scenic beauty, but the national parks are the most beautiful of all. Every year thousands of Americans flock to the national parks for sightseeing and camping. Most parks have excellent camping facilities. In addition, they have many good fishing spots and fine trails for hiking. The lovers of nature can spend his whole vacation in one of the national parks and never tire of its ever-changing beaty. A week's vacation in one of the national parks will enable the city-dweller to return relaxed and refreshed to the hustle and bustle of his city life.
この文章のなかで下線を引いた語の意味が分からないとしよう。まず"flock"は多くのアメリカ人が観光やキャンプのために国立公園に「なにかをする」わけだから、「やって来る」と出てくるだろう。正解は「集まる」だが的を射ている。次は"city-dweller"だが、この中には誰でも知っている"city"が入っており、一週間の休暇を国立公園で過ごすのだから「町の人」と出てくるだろう。正解は「都会の住民」だが、全く問題ない。最後の"the hustle and bustle"は少し難しいかもしれないが、国立公園で休暇を過ごした後に「くつろいだり、元気になったりして」戻る都会の生活だから「雑踏」となり大正解である。

 こういう読み方は文章の言わんとするところが素直に理解でき、長文でもどんどん進むことが出来る。是非試していただきたい。


参考文献

Clark, William 2006 『アメリカ口語教本--上級用--』〔新訂版〕、研究社。

Shannon, Claude & Warren Weaver 1962 The Mathematical Theory of Communication, University of Illinois Press.

(2014.6.20)  

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36 外国語の適切なことばが見当たらない!!

 sophisticatedという英語のことばをご存じだろうか。筆者はこのことばを英語の環境の中で覚えた。そこでこれを日本語に訳そうとしたが、はたと困った。適切なことばが見当たらない。たとえば、

   私、映画に行くつもりですけど、一緒にいらっしゃらない

の下線の部分の表現を使うような人を筆者は"a sophisticated lady"と呼ぶのだが、さて、これを日本語でどういえばいいだろう。「洗練された」とか「教養のある」婦人とはちょっと違う。むしろ、ニュアンスを期待して「ご婦人」で済みそうだ。

 とこでろ、このことばは「詭弁の」を意味する"sophistic"から派生したものだが、最近は悪い意味よりいいニュアンスで用いられる方が多いのもおもしろい。

 もう一つ例を挙げると、"identity"ということばだ。辞書を引くと、「本人であること」「同一物であること」「身元」「正体」などと出ているが、どれもスッキリしない。

 帰国子女は自分のidentityで悩んでいる、というとき、借用語の「アイデンティティ-」を使うことが多いようだ。これを辞書で引くと「同一性」などが出てきて戸惑ってします。身分証明証を"identification card"というが、手荷物の札のことを"baggage identification"としてあった航空会社(JAL)があったが、なるほどこれは荷物の持ち主が誰かと言うことを表しているわけだ。

 日本人にとっては、このようなことはあまり起こらないだろうが、逆に日本語のことばを外国語に訳すときには頻繁に起こる。これは母語に比べて外国語のことばの使い方をよく理解していないことが原因なのは明らかである。対象が具体物なら理解しやすい。たとえば、中国語の「汽車」は日本語の「自動車」だと覚えればあまり問題は起こるまい。ところが概念のようなものが対象なら面倒だ。たとえば、日本語の「主任」を中国に訳すときはかなり困難だ。日中辞書を引くと同じ「主任」が出てくるが、内容は全くといっていいほど異なる。日本語は役所や会社などで、課長や課長補佐(最近は副課長も使われるようだ)の下のポスト、すなわち役職の一番下に当たる。例外は、「主任研究員」や「主任教授」のっように役の前につく「主任~」はその役の上位を表す。

 さて、中国語は日本語の「~長」のようなもので、例えばセンター(中国語では「中心」の主任といえば、そのセンターの一番上のポスト、すなわち、センター長や所長に当たる。 日本語の役名はそれがどの程度のランクかはすぐ想像つく。ただし、例外もあり、やたらと役職名があり、どれが上でどれがしたかさっぱり分からない組織もないではない。英語では"director""manager""head""chief"の役名や"department""bureau""division""section"などの部局名は得てして日本人にはその上下関係が想像つきにくい。

(2014.7.5)  

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37 ことばも環境の影響を受ける!!

 昔のことだが、筆者が英字新聞の記者をしていたある日、編集局内でアメリカ人やイギリス人の記者数人が盛んに議論をしていた。聞き耳を立てると"professor"と"doctor"は敬称としてどっちが上かということらしい。なんということもないようだが、アメリカ人の高名な学者が来日し講演をする記事のなかで名前の前に"Prof."と"Dr."のどっちを使えばより丁重になるかということである。

 その時の結論がどうだったか記憶にないが、今の筆者がその場にいたら(タイムスリップしなければならないが)一発で結論を出すのだが。

 その解答は、周りの状況によると言うことだ。すなわちどっちが希少価値があるかと言うことになる。

 たとえば、筆者が大学院を修了したアメリカ東部の大学では"Prof."のほうが上である。なぜならprofessor(professor、associate professor、assistant professorのすべて)のほとんどが博士号をもっているdoctorだからだ。したがってprofessorでないdoctorが"Dr."とよばれることになる。ヨーロッパの多くの国ではprofessorの数が少なく希少価値が大きいから当然"Prof."が上になる。

 それに対して筆者が教えていたハワイ大学では"Dr."のほうが上になる。ここではprofessorがdoctorとは限らない。そしてdoctorはほぼ全員。上記の意味のprofessorであるからだ。

 ところで、アメリカでは"Prof."の肩書きが付けられるのは一番上のprofessor(これをあえてfull professorということもある)のみならず、上述の括弧の中のように"professor"の前に"associate"や"assistant"が付いた下位のものも含まれる。

 筆者の知人に陸軍少佐(major)がいたが、昇任したので"Congratulations, Col. ....."(colonel、おめでとう)というと、"telephone colonel"ですよと笑っていた。彼が昇任したのはlieutenant colonel(中佐)だが、電話がかかって来た時、"This is Col. Smith speking."(colonelは大佐)のように名乗るのを指している。日本では、副部長が「部長の~です」とは名乗らないが、アメリカではassistant professorが"Prof. ..."やvice president(副社長)が"Pres. ..." などのように自分を名乗ることが当たり前である。

 これも「所変われば品変わる」の一つである。

  (2014.7.20)  

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38 言語の変化は観察できる!!

 筆者はアメリカの大学の大学院に留学し、修了後はハワイの大学に就任し、都合11年アメリカに住んでいたことになる。その間、一度も日本に戻らなかった。当時は航空券も高く簡単には海外旅行ができなかったのが大きい理由だが、言語の専門家として日本語が変化しているかを観察しようということも理由だった。1960年代半にアメリカに渡った頃はすでに「ら抜きことば」(「出られる」のような一段動詞などの可能形から「ら」を抜いて「出れる」にしたもの)は既に使われていたが、これに関しては項を改めて論じよう。

 帰ってきた1970年半ばに驚いたのは、理由を表す「雨が降ったので」や「お茶を入れたから」というような原因や理由を表す表現の使い方が筆者の感覚とは違っていたのだ。筆者の感覚では「雨が降ったので川の水かさが増した」と「お茶を入れましたから、こちらへいらしてください」のような使い方が自然だと思っていた。ところが、当時、「お茶を入れましたので、こちらへいらしてください」というような表現が大手を振って使われていた。 筆者の観察では、「ので」が原因や理由の主観や客観ではなく、同じように使われており、さらに、「ので」をより丁寧な表現として用いられるようになっていたわけだ。

 ちなみに古い研究書の一つの国立国語研究所(1951)を見ると、「ので」は、

...前件と後件とが、原因・結果、または理由・帰結の関係にあることが、言わば表現者の措定によらなくても明らかな事実であるような事態。
とし、「から」は、
原因・理由をあらわす。表現者が、前件と後件の原因・理由として措定して結びつける言い方。
としている、要するに、前者が客観的、後者が主観的だということだ。これが筆者の言語感覚と合うものだった。ところが、この「主観的」と「客観的」の区別がよく分からないからだんだん区別がなくなってきたのだろう。

 二つの異なる機能をそれぞれ担う表現の区別がなくなると、同じことを表す表現が二つになり、無駄が生じる。すると、無駄を省くため、二つの表現の一方が使われなくなる(消滅する)か、二つの表現に異なる新しい機能を割り付けるかのどちらかになる。それが「丁寧」の有無だろう。

 ごく最近出版された見坊他編(2014)には、「から」が「[主観的に]原因・理由をあらわす」とあり「ので」は「[客観的に]原因・理由をあらわす」と未だに述べている。わずかに、「ていねいに、説明的に言う場合は、『から』より『ので』がふつう」と付けられている。

 以上のことから、「から」と「ので」の関係が変化していることがわかる。我々は今、日本語の変化の一部の状態を観察することが出来るわけである。

参考文献

見坊 豪紀他編 2014 『三省堂国語辞典 第七版』、三省堂。
国立国語研究所 1951 『国立国語研究所報告3 現代語の助詞・助動詞――用法と実例――』、秀英出版。

(2014.8.5)

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39 言語はゆっくり変化する!!

 文語は高校で習う。筆者が驚いたのは「あわれ」という表現の意味が口語のそれと大きく違っていることだった。口語が「かわいそうに思う気持ち」なのに文語の「あはれ」は「あかるい感動を表現する語」であるという。当時、著者はなぜこんなに違うのか(もちろん気持ちを表すことでは共通しているが)、またどうして変化したのか不思議だった。

 文語から口語への変化は突然起きるように思えるかもしれないが、徐々に起こる。しかも我々は今、その一部を観察することが出来るのだ。

 「から」と「ので」の変化は前話で述べた。その例では「から」と「ので」の違いが感覚的で、そのため、変化の過程が明確ではないので、変化の過程が分かりにくい。

 それに対して、いわゆる「ら抜き言葉」(以下「ら抜き」とする)は表現の結果なので、分かりやすい。「ら抜き」とは一段の動詞とカ変動詞に可能の助動詞を入れる際に「出られる」、「見られる」、「来られる」の代わりに「出れる」、「見れる」、「来れる」を使うことを指す。したがって「ら」が入っているか入っていないかは明確である。

 この「ら抜き」に関して文化庁(2011)に面白いデータがある。これは文化庁が行う国語の使用についての調査報告の一つで平成23年に行った2,104人に対しての調査の結果が報告されているものだ。その中にある「ら抜き」のデータをまず示そう。


ら抜き表

 この表は「ら抜き」の使用実態を年齢別にまとめたものだが、いくつかのことを示唆している。それは、

 1.同じ「ら抜き」でも動詞によって使う状況が異なる。
 2.動詞だけでなく、後に続く助動詞などにより異なる可能性がある。
 3.使用状況が年齢によって異なる。

などである。この中で1と2は比較するデータが少ないので本稿では論じないで、3のみに関して述べよう。

 表中を使用者の年齢から見ると、(2)と(3)の16~19歳と20代と(3)の40代と50代の間で逆転があるが、おおむね「ら抜き」は年齢が若いほど使用者が多く、年を取るほどそれが少なくなる。

 この現象はまさしく言語の変化の過程を示している。すなわち、新しい表現がが何らかの理由で若者の間で起こり、だんだん広がっていく。そして、その若者が年を取るにしたがって、年配の使用者層が増えるわけだ。さらに年が経って、古い表現の使用者が死んでしまえば、古い表現から新しい表現への完全な変化が成立するわけだ。

 このように何らかの原因(たとえば、方言の影響、共感を呼ぶ誤り、奇をてらった表現の使用など)から新しい表現が出現し、何年も経ってその表現が古い表現を追い出すことで変化が起こる。ただし、新しい表現が必ずしも生き残るとは限らない。北京オリンピックで北島康介が男子100メートル平泳ぎ決勝で世界新記録で優勝した後のインタビューで「超気持ちいいー」と叫んだことが多くの人の共感を呼んだ。ところが、この表現が広がった様子はない。新しい表現はたくさん誕生しているが、その中から選ばれた表現だけ生き延びているのだ。

 最後に「ら抜き」に戻り、これだけ多くの人が使っているにも関わらず、文化庁の審議会はまだ認めていない。言語学者の文法の記述は実態に忠実に従い、表現の善し悪しは問題にしない。それに対して言語教育者は表現が正しいか、間違っているかを判断し、正しい方を記述する規範文法を採用する。年配者の多い審議会では「ら抜き」を認めるためには時間がかかるようだ。ところで、筆者の使っている複数のワープロソフトで、例えば「出れる」と入力すると<ら抜き表現> という警告が現れる

参考文献

文化庁 2011 「平成22年度 〔国語に関する世論調査〕について」、http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/h22_yoronchosa.pdf。

(2014.8.20)

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40 韓国語の敬語は日本語の敬語と大きな違いがある!!

 筆者がアメリカに住んでいたときのことである。近所に韓国人の家族が住んでいた。ある日、多分知人の家族が尋ねて来たのだろう。彼らが帰る挨拶をしているところに出くわした。遠くから見て、「おや!」と思った。頭の下げ方やその場の雰囲気が日本人とそっくりだった。

 会ったときの挨拶から帰るときの挨拶まではっきり違うアメリカ人の間に住んでいた筆者にとって、その韓国人たちの挨拶は非常に印象的であった。

その時ふとサピア・ウォルフの仮説が思い浮かんだ。これは、1930年代前後に活躍したEdward SapirとB.L.Whorfという二人のアメリカ人言語学者が立てた言語と文化の関係に関する仮説である。それによると人間が身の回りの世界をどう見るかはその人の母語の構造(特に意味構造)によって制約されたり決定される、というものだ。ところが、80年も経った今でもまだ仮説のままだ。

 仮説とは、学問の世界では経験科学上の過程で、実験や観察によるデータで証明することで法則や理論になる。上記の仮説はその証明がいまだに出来ていないことになる。今はそれを証明しようとする言語学者は殆どいない。ただ、心理学者の中には興味を持っている人もいるようだが。

 元に戻って、筆者がサピア・ウォルフの仮説を思い浮かべたのは、挨拶と敬語の関係だ。世界で日本語のような敬語のシステムを持っている言語はごく稀だが、そのうちの一つが韓国語である。

 ところが日本語と韓国語の敬語には大きく異なる使い方がある。聞き手や話題の主が自分の目上であれば、敬語を使うのは同じだが、その目上の人が自分の身内の場合、日本語と韓国語では異なる使い方をすることがある。韓国人は目上に対して、あくまでも敬語表現を使う。たとえば、自分の知人に自分の父親のことを話すとき、「お父様は明日釜山にいらっしゃいます」というような表現を使う。すなわち目上は絶対的なのだ。

 それに対して、日本人は外部の人に話すときに自分の目上の人(たとえば父親や会社の上司)についての表現は自分に関する表現と同じように使う。そこで、「父は明日大阪へ参ります」というような表現になる。

 このような韓国人の敬語の使い方を絶対敬語、日本人の使い方を相対敬語と呼ぶこともある。

 韓国人は目上の人の前では大手を振って酒を飲んだりたばこを吸ったりはしない。自分の父親の前でも同じだ。これを見ると日本語と韓国語の違いが日本人と韓国人の行動の差になっているようだが、韓国人のそういう行動の元になっているのは儒教の影響だと言われている。それなら、むしろ逆に人間の行動が言語の使い方を変化させてきたように思われる。

(2014.9.5)

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41 挨拶と人間の行動の関係はおもしろい!!

 もう少し人間の行動と言語表現の関係を考えてみよう。小さい頃、来客の手土産の中身が何か少しでも早く見てみたかったが、母に「お客様がお帰りになるまで開けてはいけません」と厳しく言われていた。なぜ客の前で中身を見てはいけないのだろう。筆者の考えは、客が手土産を差し出すとき、「つまらないものですが」という。手土産を開けることはそれがいかにつまらないものか見ることになる。このようにことばとの連動を考えると答えが簡単に出てくる。なお、外国人はこの「つまらないもの」とご馳走をするときの「何もありませんが」に戸惑う。これも文化の違いだといえよう。

 最近は「つまらない」を脱却した表現も出ている。たとえば、自分が購入してよかったとか、「君によく似合うと思って...」など。このときは包みを開いて中身を見ないと、逆に失礼。親しい間なら「開けてもいい?」と聞くのもいい。

 この点でも、国が変われば対応は様々。たとえば、台湾では「私が使っていて気に入っているから」とプレゼントしても、「ありがとうございます」だけで、中身を見ようともしない。次に会ったときも日本人と違って梨の礫。

 ところで、最近気になることがある。会社や団体などに電話すると「いつもお世話になっています」と来る。初めての時もそうだ。これも流行はやり言葉で、あまり意味がない挨拶だと割り切ればいいが、何か白々しい。

 「失礼」は面白い。これは礼を失するわけだから、もとは謝罪の表現だが、人を訪ね、中に入るときに「失礼します」、帰るときにも「失礼しました」となる。

 筆者は日本語教師を養成する学部で推薦入試の面接のときよく受験生が「失礼します」と部屋に入ってくるので、それは何かと外国人に尋ねられたら、どう説明するかと尋ねたが、誰も説明できなかった。当たり前で普通の日本人は自分の使っている日本語表現についてはよく説明できないものだ。

 もっと極端なのは「どうも」である。人の集まりに「どうも」で入り、褒められたら、「どうも」で受け、なにか頼まれたら、「それは、どうも」で断る。最後に「どうも」で別れる。誠に便利なことばである。筆者が婚約中の妻の父と乾杯したときのこと、義父ちち(当時はまだ他人だったが)、グラスを上げて、「どうも」と発したのをなるほどこういう使い方もあるのだと思った記憶がある。

 日頃何も考えずに使っている表現もいろいろ考えているとことばの使い方には面白いことが多い。

(2014.9.20)

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42 英語に敬語はあるの??

 本屋に行くと、『敬語の英語』とか『英語の敬語』などの本がある。では、英語にも敬語があるのだろうか。敬語を日本語や韓国語のような言語のシステムだと考えれば、答えは「ない」である。

 ただ古めかしい表現でそれらしきものがないことはない。筆者が大学を卒業して入った英字新聞での最初の仕事が、中米のある国の大使による英字新聞対象の着任の記者会見であった。彼は英語が出来たが、自国の公用語であるフランス語で話し、それを通訳が英語に訳す。記者の質問は英語でするという段取りだった。

 そこで新米記者が驚いたのは、記者たちの次のような表現だった。

   What does your Excellency think about ~?

日本語にすれば「閣下はXXについて如何お考えになりますか」となる。聞き手に対して、Majesty(天皇、国王)、Highness(皇族)、Excellency(大使、知事、司教など)、Honor(裁判官、市長など)の前に"your"を付けたものを三人称で使う。これは畏まった公式の場に限られ、普通の人間にはあまり縁のない表現である。

 では、英語で表現が丁寧だというときどういう表現を使うのだろう。典型的なのは、例えば、窓を開けて欲しいときに、

   Would you open the window?

という表現を使う。なぜこの表現が丁寧になるかを同じ目的の他の表現と比べながら考えてみよう。まず、表現を並べると、

  ① Open the window.
  ② Will you open the window?
  ③ Would you open the window?

この三つを、それに対する否定の返事の観点から見てみよう。①は命令だから、"yes"とも"no"ともいえない。機能から考えると、その通り従わなければならない。②は単なる疑問文だから"no"といえるが、「いやだ」となるわけで、相手にいい印象は与えない。③は仮定法というもので、形式からいうと、現実から離れ、仮定上の話になる。そこで、この表現は「今、頼んでいるわけではないが、もし頼んだら窓を開けてくれるか」ということになる。しかし、このような表現を使うのは、実際に開けて欲しいから言っているわけだ。そこで、本来なら"yes"といって、開けるはずだ。そこで相手が単に"yes"といって動かなければこの文を使った方は、「ああ、開けたくないのだな」と理解する。まとめると、①は有無をいわせず、強要するので非常に強い表現といえる。②は拒否は可能だが、"no"と拒絶すると相手に対する印象が悪い。それに対して③は"yes"といえば形の上では承諾しているのだが、行動を起こさないことから拒否が伝わるわけだ。すなわち、①から③へはだんだん断りやすい表現になっているといえる。相手に対する配慮が表現を丁寧にしてるわけだ。

 さらに、「嫌か」という一言を加える、

   Would you mind opening the window?

はさらに丁寧だ。ちなみに、承諾の返事は"no"になる。

 英語ではやたらと"please"を付けるのではなく、仮定法の表現を中心に、なるべく相手に配慮し、婉曲な言い回しを用いれば相手の共感を呼ぶだろう。

 ところで、セイン&佐藤(2005)に面白い表現が載っている。それによると、プレゼントをもらったとき、「Thank you.(ありがとう)だけでは、社交辞令的で素っ気なく響くことがあります。How did you know?を使って、心からのお礼の気持ちを伝えましょう。」と述べ、その後に、

   It`s just what I wanted.
   I didn`t tell anyone it was my birthday.
   It fits me perfect.
   I was just thinking about buying this.

などの表現を加えれば、感謝の気持ちがより伝わりやすくなる、としている。ユーモアを交え、相手の微笑みを呼びよかったと思わせるこのような表現が英語の奥義ではないかと感心した。

参考文献

セイン、デイヴィッド&佐藤淳子 2005 『日常でもビジネスでも使える敬語の英語』、ジャパンタイムズ。

(2014.10.5)

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43 外国人は宇宙人か??

 先月、38年ぶりにハワイを訪れた。ホノルル国際空港に着き、最初に向かったのが入国審査で、そこの案内を見て、「おお、流石だな」と思った。それは本国人以外の入国手続きの場所を示す掲示に"International visitors"と書いてあったからだ。

 筆者は常日頃、多くの国際空港に出ている"Alien"ということばに抵抗感をもっていた。この言葉自体には問題はないはずだ。これは主に法律で用いられる本国人以外の人(すなわち外国人)という意味があるのだ。ところが、1979年のアメリカ合衆国の同名の映画でAlienは異星人あるいは宇宙人を指していた。

 法曹関係者以外は外国人に対してalienとあえて使わないので、alienと聞いたり見たりすると宇宙人を連想してしまう。少なくとも筆者はそうだ。それで外国の空港の入国審査の度に「宇宙人はあっち」といわれているようだった。そこで冒頭のホノルル国際空港の標識に感心したのだ。そのときはこの感覚が筆者の全くの勝手な思い込みだと思っていた。

 さらにもう一つ楽しみが増した。それは成田空港の標識がどうなっているかを見ることだ。ところが、成田では1時間に一本足らずのバスに乗るにはわずかだが外国人用の窓口の方にいくのが惜しまれて、泣く泣く(??)パスしてしまった。そこで、翌日、東京入国管理局の成田空港貴局に電話で聞いた。返事は"Foreign Passport"を使っているということだった。たしか、成田でもかつては"Alien"だったように思う。少なくとも3年前までは台湾の桃園国際空港は"Alien"を使っていた。今はどうだろう。

 やはり"alien"に対する違和感は筆者だけの思い込みではないようだ。多くの人の特定の言葉に対する思い込みや時には思い入れが社会における使用を変えることになるのも言語の変化の一つの現象なのであろう。

(2014.10.20)

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44 きれいになったトイレ!!

 前話では個人のことばに対する思い込みや思い入れがだんだん広がってことばの使い方に影響を与えることを述べた。

 本稿ではその思い込みや思い入れの原因を考えてみたい。まず極端な例をまず示そう。

     便所、手洗い、御不浄ごふじょう手水ちょうずはばかり、トイレット、WC、かわや雪隠せっちん後架こうか、化粧室

すべてトイレ(このことばで代表させる)を表すことばであるが、このうちどれだけご存知だろうか。この中にはもう使われていないものもあれば多くの人が聞いたこともないものもあるだろう(「後架」は禅寺で使う)。なぜこんなにあるのだろう。

 もちろんトイレはあまりきれいなところではない。何十年前のトイレは臭い、汚い場所であった。筆者にとってこの頃使われていた「便所」はこの臭く汚い場所という印象がこびりついていた、

 ことばは長い間使い続けていると「匂い」が付く。それがトイレのように文字通り「臭い」とそれを使うのが憚れる。そこで新しいことばが作られたり、どこかから持ち込まれる、

 便所の代わりにWC(語源はwater closetだが早稲田クラブとも呼ばれていた)やトイレットが現れた。それが略されてトイレになり、さらに女性は「おトイレ」とも言い始めた。おそらく英語からの発想だと思うが「化粧室」が使われている。極端なのは「男性用化粧室」だ。男性がどんな化粧をするのだろう。

 今はトイレは随分きれいになった。かつての「便所」などとは全く異なったところになったので呼び名も棲み分けが出来ているわけだ。

 さらに公衆のトイレの案内標識にはことばを使わず、ズボンをはいた男性の黒か青の絵とスカートをはいた女性の赤の絵が使われていることが多い。これなら日本語がわからないalien(失礼!)にも分かるわけだ。ただこれはあくまでも記号であり、その場所を聞くときにはやはり「トイレはどこですか」のようにことばを使わざるを得ない。

 また、ことばによっては、それを使うのに気を遣ったり気兼ねをしなければならないものもある。かって長い間NHKの語学講座に朝鮮語(または韓国語)がなかった。聞くところによるとNHKは講座の準備は出来ていたのに講座名を決めかねていたのだ。

 ご承知のように朝鮮語は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)で使われている。そこで「朝鮮語」を使っても「韓国語」を使っても他方に悪いということで講座名が決められなかった。迷惑を被ったのはせっかくこの言語を学びたいと思っていた視聴者だったろう。

 その解決策として出てきたのが全くバカげた案だった。採用されたのは「ハングル講座」だった。ハングルとはあの○や|や□などで出来ている文字のことである。したがって日本語の講座を「仮名講座」あるいは「漢字仮名講座」と呼ぶようなものだ。

 韓国と朝鮮が占める半島のことを朝鮮半島と呼んでいる。それに韓国には「朝鮮日報」や「ウェスティン朝鮮ホテル」などのように「朝鮮」ということばが入った組織がある。

 「朝鮮語」や「韓国語」は多少に違いがあるにしても同じ言語である。それが政治や外交のために正当に使われなかったり、「文字」に取って代わられたりしてかわいそうな被害者である。

(2014.11.5)

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45 使っていけない「ことば」?!

 まず、次のことばを見ていただきたい。

     百姓、 支那。 裏日本、 インディアン、 つんぼ、 めくら、 ハゲ、 坊主、 片手落ち、 かたわ、 ルンペン

これらのことばはインターネットの"Wikipedia"の「差別用語」の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%88%A5%E7%94%A8%E8%AA%9E)に例として出ているものの一部である。「差別用語」とは偏見や先入観などのために特定の人に不利益や不平等の扱いをすることばのことである。この偏見や先入観が前話、前々話でいう、思い込みや思い入れの一部のことである。

 この「差別用語の」問題は非常に難しい。これは使っていけないことばであるわけだが、この問題を論じるには例を挙げなければならない。

 したがって本稿では「差別用語」を特定の人を差別するために使うのではなく、ことばそのものについて論じるために使うことを断っておく。

 差別用語は大きく分けて2種類ある。一つはもともと差別そのものを表す意味を持ったものである。もう一つはことばそのものは差別を表さないが、それを、差別するために使ったものを指す。前者は「かたわ」や「ルンペン」などであり、後者は「百姓」や「裏日本」である。「百姓」は農民を指すが、それを蔑んだ意味で用いられたため差別用語になった。「裏日本」の「裏」も本来決して差別に使うものではないが、より開けている「表日本」と対比され、劣った地方という含みで用いられ差別用語になった。

 ところで言語学者は一部を除き「標準語」ということばを使わないで「共通語」という。「標準語」に対する「方言」が被標準になり、標準以下、すなわち劣っている言語になるからである。言語学者は言語の優劣を認めないことから来るものである。なお、「標準語」を用いる言語学者とは国や地域などの社会で人々が言語をどのように使っているかを研究する社会言語学者で、言語の使用者が「方言」に対して「共通語」をよそ行きのことば、すなわちより優れているという認識で使うことがあり、それを明確にするために「標準語」と呼ぶのである。

 差別用語に戻って、もともと存在したことばを特殊な、とくに差別するために使った結果、そのことばを使うと対象を軽蔑しているという意識が広まり、それを使うのは怪しからんという風潮が生まれる。そこで、差別用語というレッテルが貼られることになる。

 さらにあることばが差別用語になると、そのことばを含んだもの、例えば「めくら」に対して「めくら打ち」、「めくら鰻」、「めくら判」、「めくら滅法」、「めくら蛇」など差別を含まない表現が使いづらい、あるいは使えなくなってしまう。

 もう一つ例を出すと、「女中」ということばがある。かつて家庭で炊事や掃除など家事の手伝いをする女性を指していた。ところがこの「女中」は休みもなく低賃金で搾取の対象だったということでこのことばに変わり「お手伝いさん」ということばが現れた。これなど社会のシステムが問題であり、そのことばを使うことで相手を蔑んだとはいいづらい。さらに「奥女中」や「御殿女中」を「奥お手伝いさん」や「御殿のお手伝いさん」と言い換えても意味がない。

 最初から蔑むためのことばは使うべきではない。しかし、社会で使われている間に蔑む要素が加えられたことば自体には罪はない。蔑む意味では使わず、本来の意味で使うということにしなければこれらのことばは浮かばれまい。

(2014.11.20)

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46 「惑星」と「遊星」はどこが違うのか??

 この二つのことばはどこが違うかご存知だろうか。金田一(1957:43-44)は「学界のことば」という項で、「天文学で、planetの訳語として、東大関係で『惑星』を使い、京大関係で『遊星』を使っていたのも有名だった」と述べている。

 同じものに対して異なる用語を用いると混乱が生じると思えるが、同じ専門でも学派が違うと異なる用語を用いることがる。専門家たちは論文を読むとき用語を見て学派が分かるからそれほど問題はなかろう。上の例もこれに当てはまるだろう。

 このようなことは学派間のみならず学問の分野でも起こる、というより、むしろ多い。筆者の専門は言語学だが、細分化するとコンピュータ言語学である。文科系である言語学の学生たちにコンピュータ言語学の話をするとき、「解析」という用語を使うことが多い。この用語をはじめて出すと、多くの学生たちがなにか恐ろしいものが出てきたというような顔をする。高校時代に苦手であった数学の用語を思い出すのだ。そこで筆者は「『解析』の英訳は何だ。"analysis"だろう。では"analysis"の日本語訳は。そう『分析』だろう。『解析』も『分析』も同じことなのだよ」というと、学生たちは安心する。なお、コンピュータ言語学はその出発点がいわば数学的な手法を用いた数理言語学なので「解析」の方を用いるのだ。

 これらの例とは反対に異なるものを同じ用語で表すこともある。その最たるものが国語学の「単語」と日本の英語教育における「単語」である。英語の方の「単語」は"word"の和訳であるが、和訳するとき国語学の「単語」を借りてしまったのだろう。

 "word"は、多少問題はあるが、原則として独立して文の要素になる単位のことをいう。それに対して国語学の「単語」は「は」、「が」、「に」などの助詞や「だ」、「です」、「ます」、「られ」などの助動詞など独立して文の要素にならないものが含まれており、"word"より小さい単位であり、言語学では"morpheme"(「形態素)」と呼ぶ。書き言葉を見れば明らかだが、英語の"word"はその間に空白が置かれるのに対して、日本語に分かち書きではそれぞれ名詞と助詞や動詞と助動詞の間には空白を置かない。こう見ると英語の名詞や動詞はそれぞれ日本語の名詞や動詞とは異なる機能をもっていることが分かる。

 なお、"word"の独立した、文の要素に関して多少問題があると述べたのは、"the"、"a"、"is"、"ever"や"I`m hungry"の"m"、"Don`t!"の"nt"などを指している。これについて言語学の古典とされていたBloomfield(1933,1961:179)が他の語の文法構造を引き合いにして説明を行っているが、大学院生だった筆者はこれを読み、苦しい説明だと思った記憶がある。

 ところで冒頭の「惑星」と「遊星」がそれぞれ東大と京大で使っていたという話も異論があるようだ。初版にあったこの話は新版の金田一(1988)では消えている。また、日本惑星学会では「惑星」を使っているが、その機関誌の名前は「・」が入ってはいるものの「遊・星・人」というのも面白い。

参考文献

金田一春彦 1957 『日本語』、岩波新書、岩波書店。
  ---- 1988 『日本語 新版』(上)、(下)、岩波新書、岩波書店。
Bloomfield, Lonard  1933,1961 Language, Holt, Renehart and Winston, INC.

(2014.12.5)

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47 「えっ!アイス・ティがないの??」

 異文化コミュニケーションにおいて、相手が発する文の意味を理解しても相手の意図が理解できるとは限らない。その要因はいろいろあるが、その一つは相手の国との習慣や風習などの違いだ。本話と次話では筆者の若い頃の失敗談を書くことにしよう。

 著者がペルーに行ったときのことである。ホテルのレストランで冷たい紅茶を注文した。ペルーだからスペイン語で注文したわけだが、té frío すなわち、つめたい紅茶と言った。もっと正確にはté con hieloすなわち、アイスティー(氷入りのティー)と言った方がよかったようだが、いずれにしても、私の前に届けられたのは熱い紅茶だった。

 そこで、ウェイターにこれはつめたい紅茶じゃないではないかと言うと、ミルクが冷たいと言う。これには著者がばかにされたと思うのが普通だろう。しかし、場所はアレキーパというペルー第二の都市(と威張れるほどではない田舎だが)の大きなホテルである。ウェイターが客をばかにするわけがない。

 私のテーブルにはアメリカ人のスペイン語学者たちが同席していたので、私のスペイン語が間違っていたのかどうか念を押すと、皆が間違いないという。どちらかと言うと外国語で喧嘩をするのが好きな著者はそこでウェイターと一戦を構えようかとも思ったが、待てよ。これには必ずコミュニケーション・ギャップがある。それを調べる義務が言語学者にはある、とその場は熱い紅茶で我慢した。

 後でわかったことだが、ペルーをはじめ、その周辺のアルゼンチン、ブラジルなどでは、冷たい紅茶を飲む習慣がなかったのだ。表現はある。しかし、それが現実の生活の中では存在しない。おそらくウェイターは困ったのだろう。そこで、彼の解釈を想像すると、猫舌の東洋人(変な外国人)が普通の熱い紅茶が飲めないなら冷たいミルクを一緒にだせば(紅茶にミルクを入れるのは彼らにとってごく当たり前のことである)、紅茶をぬるくすることができる、と親切に考えてくれたのであろう。

 このように親切にしたことが相手に通じず誤解が生じるのは、いわゆる異文化コミュニケーションではしばしば起こることである。

 断っておくが、冷たい紅茶を飲む習慣のないのはスペイン語やポルトガル語を使う国全般にいえることではない。著者はメキシコでは同じ表現でちゃんと冷たい紅茶を手に(口に)いれている。 これは隣の国のアメリカの文化の影響を受けているからだ。

 また、スペイン人とブラジル人の女性が一緒にいるところで、この話をしたら、その通りだとうなずくブラジル人に、スペイン人が氷を入れれば冷たい紅茶になるだろうと執ように食い下がるのに対して、そのブラジル人は、私たちは氷はジュースにしか入れない(アルコールには入れないかどうかは聞きそびれた)と涼しい顔をしていた。

 本項は草薙(1991)に載せたものを加筆・修正したものである。


参考文献

草薙裕 1991『日本語はおもしろい--考え方・教え方・学び方--』講談社。

(2014.12.20)

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   あけましておめでとうございます

              皆様の御多幸を祈ります

 このシリーズを掲載しはじめたのが2年前、したがってそれ以来三回目の正月を迎えます、この2年間、毎月2本の話を連載できたのもこの欄を読んでくださった読者のお陰で深く感謝します。


48 なぜ有効なビザが無効なの??

 前話に続いて、文の意味が分かっても、意思の疎通が出来ない例を示そう。

 東京オリンピックの前年のことだから、もう50年あまり前のことである。著者が新聞記者をしていたころのことだ。メキシコに行くといったら在日大使館が特別待遇の儀礼ビザ(courtesy viza)をくれた。それでメキシコに入るつもりだったがアメリカで時間を使いすぎて、期限が過ぎてしまった。そこで、近くのメキシコ領事館で観光ビザを手に入れた。

 翌日、メキシコ市から30時間あまりかかるアメリカのテキサス州エルパソ市から入国しようとしてバスに乗った。客は筆者一人。30分ぐらいいったところに入国管理事務所があった。掘っ立て小屋の事務所には係官が一人しか居なかった。手続きを求め、パスポートを出すと、その係官は無効になった儀礼ビザを指して、無効になっているからおまえは入国できないという。筆者は、それは分かっている、だから、この観光ビザをとってきたのだ。これで入国を許可してくれ、というと、だめだという。なぜなら、と同じことを繰り返す。

 最初は筆者のスペイン語が通じないのかと、いろいろ説得に努めたが、相手の主張は変わらず、全くラチがあかない。最後に、明日出直せと、パスポートを机の引き出しに入れようとする。一度取り上げられたらいつ戻ってくるか分からない。

 「明日」ということばに反応した(スペイン語圏では"Hasta mañana"<また、明日>といってなんでも明日に伸ばしてしまう)ことと係官の「理不尽さ」に腹を立てた筆者は、「バカヤロウ」と日本語で怒鳴り、机を思い切りたたいた。その剣幕に驚いた係官は大急ぎで入国許可のスタンプを押してパスポートを返してよこした。怒りは収まらなかったが、まあ意気揚々と、30分以上も筆者一人を待っていたバスに戻った。

 これは明らかにミスコミュニケーションだった。係官の意図は「袖の下」だったのだ。それを理解できなかった筆者は係官が話すスペイン語の文をストレートに解釈し、混乱した。異文化の要素を含んだ外国語におけるコミュニケーション能力は獲得が難しい。

 ところで、無事に戻ったバスで長時間の旅に発ったわけだが、そのバスの運転手たち、入れ替わり立ち替わり乗り降りするお客たち、恐らくその人たちの大部分は日本人が初めてだっただろうがみんなとても親切にしてくれた。長距離バスなので運転手が二人居て、一人は休むのだが、疲れるからと自分が使うクッションを貸してくれもした。これらのことで入国管理官への怒りは消えたばかりかお釣りがきたくらいだった。

 しかし、参ったのはバスがどんどん遅れるのに運転手は悠々と、なにか口に入れるために「食事のために30分」と宣い、バスを止めるのを繰り返す。目的地のメキシコ市に着いたのは数時間遅れて深夜を過ぎていた。バスを降りると、迎えに来ることになっていた人物が待っていた。長く待たせたことに恐縮し詫びを繰り返す筆者に「無事着いてよかった、よかった」と喜ぶ姿は神様に映った。

 自分一人だけで、日本人の居ないところで、外国語を使い、普通の人の情に触れる。そしてコミュニケーションのために知識と経験を積む必要性を実感することは、まさしく外国語を学び、それを使う醍醐味であるのではないだろうか。

 本項も草薙(1991)<第47話を参照>に載せたものを加筆・修正したものである


(2015.1.5)  

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49 大学教授は忘れっぽい!?

 本項は日本人が英語で文を書くときに非常に役に立つ「道具」を紹介しよう。

 ざっと45年前の話だが、筆者がハワイ大学に赴任したときの話である。ハワイは住宅難でなかなか気に入ったアパートが見つからなく、ホテル住まいを強いられた。そこでアパート探しのため、自動車を買った。

 自動車の保険を契約するため、保険会社に行った。申込書に書き入れ、差し出すと、運転免許証を見せろという。「あっ、しまった。持ってくるのを忘れた」というと、すかさず、ニヤッとして"Absent-minded professor"といわれた。

 大学に戻り真っ先に行ったのが図書館。手にしたのがWord Finderという「辞書」で、 "professor"を引いてみた。あった、あった。その項に"absent-minded"があるではないか。

 この「辞書」は一見、Thesaurus(同意語、類義語、反意語などが載っている辞書)と似ているが、まず項目があり、その下にその項目とともによく使うことばが羅列されている。

 professorの項には、

adjective
renowned; theorizing; mournful; dogmatizing; world-famed; controlling; volunteer; unsympathetic; eminent; assiduous; miserable; braintrust; unemployed; unlearned; grave; wizened; wise; asbsent-minded; kindly; knowing; eccentric; research; modest; masterful
がのっている。

 これをみると、renowned、world-famed、eminentのようなほめることばに並んでabsent-mindedやunlearned、unsympathetic、eccentricのようなけなすことばも入っている。

 これに対し、"teacher"につく形容詞のリストはどうか見てみよう。

perspicacious; competent; well-trained; mute; pious; imaginative; established; enthusiastic; delightful; admirable; discontented; notable; eminent; fledged; brilliant; illustrious; foremost; understanding; zealous; distinguished; religious; discouraged; primary; incapable; stimulating
とあり、わずかな例外を除き、けなすことばはほとんどない。すなわちteacherは評価されているのに対し、professorの方は評価が非常に高い一方、人間的に抜けている人がいるという認識があることが分かる。

 この点この辞書はいろいろなことばを調べることで、英語の母語話者がそれぞれのことばをどういう感覚で使っているかがよく理解できるのだ。英語を母語としないものにとって英文を書いているとき名詞を修飾する形容詞や動詞を修飾する副詞などの選択、すなわち語と語の共存が可能かどうかを見極めるためにはこの上ない「道具」だといえる。

 ただ残念なことに、この本はどうも現在あまり流通していないようだ。興味のある方は図書館で探していただきたい。

参考文献

Rodale, F. I.(compiled & edited) 1947 Word Finder, Rodale Books.
(2015.1.20)

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50 ことばと人生!!

 本シリーズもついに第五十話を迎えることになった。これもひとえに本シリーズの読者のお陰だと感謝の意を表したい。

 この2年あまりがむしゃらにことばに関する話を積み重ねてきた。そこでしばらく休暇に入り、一つひとつの話を検討して推敲をし直す一方、このシリーズをどうするか、すなわち、一冊の本にするか、電子書籍にして世に出すか、または他の計画を練るか考えてみたいと思う。

 さて、本話は中断の前の最後となるので、趣を変えて筆者が言語に関して興味を持ち、それを専門にするに至った経緯を述べることにしたい。

 筆者は植民地時代の台湾で生まれた。当時の台湾の日本人は日本人街に住み、子供は日本人の学校に通っていた。例外があったかもしれないが、日本人は日本人社会の中で暮らしていた。日本人は日本語だけを話す一方、台湾人や原住民(当時、高砂族と呼ばれていた)はそれぞれ自分たちのことばを話し日本人と話すときは日本語を使っていた。

 したがって、筆者は子供の頃、残念ながら、外国語を使う機会は全くなかった。もし、台湾人と台湾語で交流する機会があったら、後日中国語が話せたかもしれなかった(台湾語は中国語の方言といってよい)。

 このように、日本人として日本語だけの生活をしていたが、日本人以外の人々が周りにいたわけで、世の中には日本人以外の言語を使い、日本語と違ったものの考え方をする人たちがいることを無意識のうちに認識していた。これが筆者の言語に対する好奇心の原点である。

 終戦後、日本に引き揚げてきて、大阪の小学校の5年に編入した。ここで自分の学力の異常さに気付いた、たとえば算数のテストでは、クラス最下位の成績と満点を交互に取ったり、国語では、ほとんどクラスの平均より少し下ばかりというような体たらくだった。これは子供なりに分析すると、新しく習ったことは苦労しなかったが、過去に習った(はずの)ものの応用やその積み重ねが必要なものは理解に苦労していた。

 筆者は戦時中、台湾で疎開したがそこには日本人学校がなく学校に行っていない。さらに、引き揚げ後、父の再就職の赴任地がなかなかか決まらない上、住宅難から住むところを探したりしたため1年以上まともに学校に通えなかった。

 中学校に進学したときのことである。周りの級友たちと全くハンディがなければ劣等感なしに対等に勝負でき、自分の力が発揮できると考えた。そこで見回したところ中学校から始まる科目があった。英語である。そこで、英語に全力を集中しようと誓った。これが日本語以外の言語との関わりの出発点だった。それ以来英語との濃厚なつきあいはいまだに続いている。

 次は大学の選択である。東大に落ち、外国語大学で英語を専攻しようと考えたが、前年たまたま会った中学校の同級生の「上智大学はたくさん外国人の先生がいて外国語教育を徹底的に行っている」ということばを思い出した。外国語(英語)を専攻するなら母語話者の専門家に徹底的に(しご)かれなければ上達しないと考え、ここで進路が決まった。入学したのが、外国語学部英語学科だった。これから筆者の英語とのつきあいがより緊密になった。上智大学では文字通り英語漬けだった。詳細は略すが、これが筆者の英語の力を大幅に上げてくれた。

 そして就職も英字新聞の記者に決まった。ただ筆者の将来に大きく影響する出来事があった。それは卒業の直前、学科長から大学に助手として残らないかと勧められたことだった。それまで、英語を学問として専門にすることなど思いもよらなかった。結局、就職も決まっていたので、断ったが、この出来事が自分の人生の転機を呼ぶことになる。

 さらに、人生の転機を呼ぶもう一つの出来事があった。母校が日本で始めて外国へサマースクールを開くことになり、広報を担当する卒業生に、英字新聞の記者をしていた筆者に白羽の矢が立ちアメリカへ2ヶ月行くことになった。

 それがまた新しいチャンスの到来に繋がることになる。サマースクールの学生が研修旅行で立ち寄る大学に外国語教育の方法論で高名な言語学者が学部長でいた。そこで、新聞記者として、その後の方法論についてインタービューをして記事を書こうと考えた。その大学が母校と姉妹大学であり、母校のスペイン人神父が留学していたので、学部長のアポイントメントを取っておいてくれるように手紙で依頼した。そして、その大学に着いたとき、「学部長は忙しくて会えない」というので、「それなら結構です」というと、神父は「では、留学はどうするのだ」という。「幸いに」神父はアポイントメントの目的を留学のための直訴と誤解していたのだ。神父はすでにしかるべき人に頼んでおいてくれて、とんとん拍子に留学の話が決まった。

 そこで、翌年、ジョージタウン大学の大学院に留学した。最初は新聞社から休職をもらい2年のつもりで言語学の修士課程に入った。

 ところが、ここでもハプニングが起こった。アメリカの大学の大学院では必要な単位を取ると総合試験(Comprehensive Examination)という非常に難しい試験を受けなければならない。これを受けた結果は出来すぎだった。6段階の結果のうち、最上位の「修士論文を免除しすぐ博士課程への進学を許可する」であった。

 日本の仕事、家族の生活、学者としての人生など熟慮の上、学問の道を選んだ。しかも専門が長年付き合ってきたことばを研究する言語学であった。

 それ以来、ハワイ大学就任、博士号取得、筑波大学就任と続くが、一貫して言語の研究を続けてきた。

 まだいろいろエピソードはあるが、これぐらいにしておこう。

(2015.2.5) 

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